データベースはどう評価されるか
2007-11-30


ある時、ある場所でのこと・・・COEを決める側の立場の人と同席したことがある。もう、次の年度には退官ということで、かなり自由にものを言う気分であったようだ。

いわく・・・COEの計画書を見ると、どれもこれも、データベースを作るというものばかりだ。近頃の若い研究者は、ろくな研究をしない。データベースばかり作っている。

さて、どう考えるべきか。私としては、内心、非常な複雑な気持ちで、このことばをきいた。

たしかに、半分は、あたっていると、思わざるをえない。現在、各研究分野で、データベースが、さかんに構築されつつあることは、確か。そして、まだ、それが、途上であることも、確か。

だが、一方で、こうも思う。

1. 若い研究者が、まさに、データベース構築に動員されて、現場での作業にあたっている。専門的なデータベースは、それなりの学識がないと作れない。そのため、業績となる論文を書くための時間がうばわれてしまう。データベースを作ったスタッフの一員というだけでは、業績として、高く評価されるということはない。

2. 現在では、ある程度の利用価値のあるデータベースは、いろいろと蓄積されている。だが、それを、本格的に使った研究が乏しいのも現状ではなかろうか。データベースの価値を決めるのは、それを使って専門の研究者が、どのような研究成果をあげられるか、である。どんなに充実したデータベースであっても、使う研究者がいなければ、評価の対象とならない。

3. さらには、次のようなこともある。たとえば、東京大学史料編纂所のデータベース。今、日本の歴史学研究者で、ここを利用しない人はいないだろう。ある意味、ここまでになってしまうと、作った人のことが、逆に、忘れ去られてしまう。

『日本国語大辞典』(小学館)は、いったい誰が実際の編集・執筆にたずさわったのか。どれほど知られているだろうか。『大漢和辞典』(大修館書店)は、一応、諸橋徹次、ということになっている。しかし、実際の編集に、自ら手をくだしてはいないことは、周知のこと。「データベース」が「工具書」として充実して利用価値が高まるほど、その実際の作成者は、忘れ去られていく。

理想をいえば・・・データベースを使った研究がどんどん発表されて、そして、それが同時に、データベースを作った人の評価にもつながる・・・このようになってほしい。

[デジタル・ヒューマニティーズ]

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