2008/03/03 當山日出夫
過日の立命館のARCでの研究会。2日あるうちの、1日目だけしか出席できなかったのだが、今になって考えて思うこと。
GIS(地理空間情報システム)、最近では、それに、時間を加えて、時空間情報処理システムへと発展しつつある。このことは、CHの分野にかかわっていれば、すでに多くの人が知っている。
時空間=場所と時間、実は、これが、人文学においては、かなりやっかいな問題をかかえている。(このことの一端は昨年の「じんもんこん2007」京大会館で話しをした。)
まず、時空間情報は、場所=緯度経度情報、そして時間=年月日・時刻、という形で、きわめて機械的・無機質である。ならば、誰でも、それを、同じように見ているか、となるとそうではない。それが、GISとして、学術的な意味のあるデータとして処理の対象となったとき、各研究分野による考え方の違いが、露呈する。あるいは、すれちがいが起こる。
私は、日本語の研究といっても、文字とか文献資料による分野である。方言学・言語地理学には、うとい。それでも、最低限の知識の範囲で考えてみても、文化的な事象を、時空間情報で考えることの難しさは、理解できる。
たとえば、方言調査から地図をつくる。これを、GISの技術で、自動的に……という研究があることは、知っている。そのとき、まず、何のために地図を作るのかという目的の設定がある、そして、できた地図から何を読み取るかという解釈がある。その過程にサンプリングの問題があり、また、地図のどの地点にポイントするか、という問題がある(例えば、調査地点なのか、インフォーマントの居住地なのか、さらには、村落市町村単位か、その場合、地図のどこにポイントを決めるのか、市役所の位置か、人口の重心地点か……などである。)
美術史の研究分野の人が、GISに期待するものは、なんだろう、と思う。すくなくとも、言語地理学のアプローチとは異なることだけは確かだろう。また、考古学とも違うだろう。
このように考えると、時空間情報といいながら、同じものを共有しているようでいて、実は、そうではない……ということに気づく。言い換えれば、その研究分野の方法論、あるいは、暗黙の前提というべきものを、明らかにしてしまう。それが、時と場合によっては、議論のすれ違いになる。
GISは、従来の学知の暗黙の部分を暴露する、極限すれば、このようにいえるだろうか。このことは、さらに考えていきたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
セコメントをする