2009/01/12 當山日出夫
もろさんのブログで、「絵文字」のことについて言及してある。
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ここで、話しはとぶが、昨日の、立命館白川静東洋文字文化研究所での講演会。(石塚晴通先生、HNGについて。)
講演そのものは無事に終了。会場には、主催者側で用意してくれたパソコンがあるにはあったが、アスペクト比が、うまく調整できていない。会場となった教室(末川記念館)は、今年度前期に、デジタルアーカイブ(映像学部)で使用したので、プロジェクタなどの設定のややこしさは、身にしみて知っている。
どうしようかと迷ったが、私の持参のレッツノートを使うことにした。理由は、正面のスクリーンと、天井からのディスプレイと、両方が、同じアスペクト比で見える。また、私のには、FireFox(3)が、ブラウザとして入れてあり、無線LAN接続で使えるように設定してある。(HNGは、すくなくとも経験的には、IEよりも、FireFoxの方がきれいに表示される。)
で、もとにもどって、白川研の講演会。最後の質疑応答で、会場からの質問。「文字とシャーマニズムとの関係について?」。石塚先生も、ちょっととまどったような感じだったが、無事に済んだ。(基本的に、HNGは、「楷書」が成立して以降の、字体の規範あるいは標準を見ようとするものであるから、文字の起源とはかかわらない。)
だが、この質問は、当然ながら、白川漢字学をふまえてのものであることは、すぐに理解できる。
文字(この場合は漢字)が、成立したとき、筆画による記号的存在から、なにがしかの飛躍があったことは確かだろう。また、同時に、音声言語との対応関係においても、飛躍が必要。かりに表音文字の成立を考えるとしても、その文字がとらえる音声(あるいは音韻)の単位の認定が、必要。
さて、絵文字であるが、すぐにこれを「文字」であるとは言いにくい面があることは確か。しかし、単なる、記号(「?」や「…」句読点など)以上のなにかを表現していることは確かである。
逆に考えてみると、近代において、活字による出版が一般化し、また、現在のようなコンピュータによるコミュニケーションが普通になっている。では、このとき、人間は、「純粋なテキスト」によってコミュニケーションしているのか、あるいは、ある種の感情や身体性を付与しているのか(どの種類の活字をつかうのかなども問題、HTMLなら大きさ・色を変えることは容易)。
また、一方で、音声言語のコミュニケーションにおいて、「純粋なテキスト」を見いだせるか?
このあたりのこと、『論集 文字』(仮称)で、もらった師さんの原稿を読みながら考えてみた。(これで、原稿としては、だいたいそろったので、最終的な編集・組版の作業にうつる。)来月の、国立国語研究所での第2回「ワークショップ:文字−文字の規範」までには、広告のチラシなど用意できるようにしたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
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