2010-01-08
2010-01-08 當山日出夫
やっぱり、つづけることにする。パソコンがあたらしくなると、インストールしてあるエディタ類の設定が微妙に変わってしまうの、ついつい文章を書くのが億劫になる。ここは、一種のリハビリ的な意味で、つづきを書いていこう。
基本的にA会場の方にいたので、こちらしかわからない。そのなかで、第一日目の午後の発表で、気づいたことをいくつか記す。
Subversionを用いた仏典テキスト校訂支援システムの評価
福岡整さん(ほか)
なかなかいい発表だなとは思った。まず、画像データとテキストデータとの連係。そして、それを、どのように管理するか(本文校訂)の問題。この場合、やはり問題になるのは「校訂」ということの定義だろう。
単純化していえば、
・本文のミスをただす(→正しい本文に書き換える)
・肯定者(研究者)の本文解釈として字句を改める
この二つの方向がある。
そして、ややこしいことは、これが、それほど単純に分けられないことである。特に、専門家が、その専門の目で、文献を読むときには、これらが重なる中間的なグレーゾーンというべき部分がある。極端な場合、本文のミスとわかっていても、あえてそれを残す、原文のかたちを残す、というような、ひねくれたこともあったりする。(正しいと判断すべき本文は注記などで言及することになるが。)
ここまでいかないにしても、この発表の「評価」のところが少し気になったので質問してみた。単純に、多数決で、何人の人の意見が一致した/しない、ではなくて、専門家の目で見てどう判断できるのか、その部分を考慮すべきではないか、と。
この観点では、次の発表
デジタル画像資料を利用した文献研究に必要な環境について
岡本隆明さん
人文学であつかう文献資料について「テキスト的要素」と「イメージ的要素」にわけて考えるという基本の発想。これは、昨年の秋の訓点語学会の発表でも発言のあったこと。この基本的なことが、実は、コンピュータで、文献資料をあつかえるようになって、あらためて自覚すべきことになってきた、といえるのではないか。そして、このことに、いままで、さほど気にせずにきたのではないか、と反省点の指摘になる。
コンピュータで、かなり自由に画像データとテキストデータとあつかえる。そして、テキストデータについては、文字コードとそれで表示される文字の「かたち」が問題になる。テキスト的要素といっても、純粋にそれだけをとりだして考えようとすると、かなり深いところの文字論に踏み込まざるをえない。
この発表はそこまでつっこんだ内容のものではなかったが、基本的問題点の指摘としては、非常に重要な点をあきらかにしていると思う。ここからさきは、テキストとは何であるか、という議論になる。今後の課題とすべきだろう。
その他に、「幕末維新期人口史料」分析プログラムの開発、など興味深い発表もあったが、長くなるので、これぐらいにしておこう。一日目がおわって、懇親会に出発である。
當山日出夫(とうやまひでお)
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