北原白秋「赤い鳥小鳥」
2016-11-21


2016-11-21 當山日出夫

北原白秋が作ったこの童謡は、多くの人が知っているだろう。最初だけ引用しておく。(ただ、北原白秋は昭和17年になくなっているので、その著作権保護期間は終了している。)

赤い鳥、小鳥、
なぜなぜ赤い、
赤い実を食べた。

昔、学生のころのこと、この詩について、私は、どこか不気味で怖いところがある、という意味のことを言った。そのとき、まわりにいた仲間、学生たちは、そんなことはないといって、わらって相手にしてもらえなかったのを、今でも、憶えている。

川本三郎.『白秋望景』.新書館.2012
[URL]

を読んでいて、このことを思い出した。この歌を三番まで引用した後に、こうある。

「繰返しの面白さに加え、この歌には単純とは片づけられないかげりが感じられる。ただ鳥がいるのではない。赤い鳥、白い鳥、青い鳥とそれぞれに違った鳥がいて、それぞれに違った色の実を食べた。その後、鳥がどうなるのか。「なぜなぜ」は、鳥が禁断の実を食べたことをあらわしている。本当は食べてはいけない実を食べたのではないか。だから食べたあとに、何か異変が起こるのではないか。この歌には、そんな怖さがある。」(p.241)

いま、としをとってから、あらためてこの歌の歌詞を見て、どこかしら怖さを感じるという印象は消え去っていない。私の感じる怖さは、「禁断の実」というよりも、「因果応報」という方向なのではあるが、しかし、なにがしかの不気味さというのは、どうしても感じてしまう。

これは、考えすぎなのだろうかとも思うが、一方で、川本三郎も書いていることだし、同じように恐怖を感じる人も、他にいるにちがいないと思ったりもする。

このようなことは、論証できる、証明できる、という性質のものではない。だが、証明できないからといって、学問的な見解ではないといえるかとなると、そうでもないように思える。さらにいえば、文学研究、あるいは、文学鑑賞の機微は、このような微細な感覚にあるのだろうとは思う。

はて、これからどう論じていけばよいのであろうか。まあ、私は、文学研究を専門にしているわけでもないし、文芸評論が仕事というわけでもない。気楽な一人の読者にすぎない。とはいえ、いや、だからこそというべきか、ことばを読んで感じるところを大切にしていきたいとは思うのである。

[文学]

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