俵万智『サラダ記念日』
2016-12-09


2016-12-09 當山日出夫

「七月六日はサラダ記念日」・・・俵万智の歌といえば、まず思い浮かぶのはこの作品あるいは歌集だろう。

俵万智.『サラダ記念日』(河出文庫).河出書房新社.1989 (原著 河出書房新社.1987)
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この本、今でも売っているようだ。単行本の初版は、1987年であるから、今からざっと30年前。いまだに現役で売られているのは、それなりに読まれているということなのだろう。

今年の7月6日、たまたま、学校の講義の日。

私は、黒板にまず、その授業の科目名、それから、日付(年月日)、今日のテーマを、板書することにしている。科目名とか日付とかは、こちらで指示しなくても、学生がノートをとるときにまず記入すべきことだとは思っているのだが、ねんのため、そのような習慣をつけさせるトレーニングのひとつとして、自分で、黒板に板書して確認するようにしている。

で、7月6日。「今日は、サラダ記念日ですね。」と言ってみたが、学生の反応はまったくなし。いやしくも日本文学科の学生なら、『サラダ記念日』ぐらいは知っているだろうと思ったのだが、どうやら無理であったようだ。

しかし、考えてみれば、本が出たのが、30年も前のはなし。学生にしてみれば、自分が生まれる10年ほど前の刊行になる。そのような本のことをいわれても、ぴんとこないというのも、いたしかたのないことかもしれない。

ネットを検索してみれば判明することだが、実際には、7月6日にサラダをつくったというわけではないようだ。これはこれでいいとして、このようなことが話題になるということ自体が、メタレベルで興味深い。それは、「写生」ということが、いまだに短歌などの世界で息づいて残っているということの反映なのかもしれないとおもったりする。

この「写生」という観点からこの『サラダ記念日』所収の作品を読んでみれば、これは作った歌だなと感じさせるものになっている。もちろん、なかには、自身の体験・経験をそのまま詠み込んだようなものもあるのかもしれないが、それは、特にそれとして目立つ存在ではない。

私自身は、現代短歌というものからは門外漢なので、その作品のありさまとか、あるいは、現代における現代短歌研究がどうなっているのか、まったく知らない。

だが、そのような私でも、この『サラダ記念日』は、目を通しておかねばならないと思って読んでみている。やはり、読んだ印象として、現代風の視点・感性をもちこみながらも、『万葉集』からつづいている日本古来の和歌の流れのなかにある作品だな、ということはなんとなく感じる。

そして、そこに詠み込まれているのは、淡い青春の思い出である。この『サラダ記念日』は、現代の青春歌集といってもよいのではないか。すでに指摘されていることだと思うが、俵万智は、小道具の使い方がたくみである。たとえば、「カンチューハイ」など。「サラダ」に隣接する歌に登場するのは、「ハンカチ」「トースト」「ワイシャツ」。これらカタカナ語が、伝統的な短歌の和語の世界に、ある種の違和感を感じさせながらも、すんなり溶け込んで読まれている。これらの語が表象する「日常」が、この『サラダ記念日』の主な流れをつくっている。

ところで、現代における短歌とはどうであろうか。ちなみに、ツイッターで、「#短歌」で検索をしてみると、実にたくさんの作品が出てくる。中には、写真をつけて、それに歌をそえたものまである。

現代のインターネット、SNSの時代になって、新たなメディアのうえに、現代の短歌があるというべきなのである。そして、このような現代の短歌のあり方をふまえなければ、今後の、日本文学における短歌研究というものもなりたたない時代になってきているといえるだろう。

俵万智もきちんと読んでおきたい作家(?)の一人。『チョコレート革命』のことなどは、また追って。

[文学]

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