『西行花伝』辻邦生
2017-07-08


2017-07-08 當山日出夫(とうやまひでお)

辻邦生.『西行花伝』(新潮文庫).新潮社.1999(2011.改版)(新潮社.1995)
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再読である。そして、久しぶりの辻邦生である。

辻邦生の作品は、若い頃によく読んだ。『廻廊にて』『嵯峨野明月記』『安土往還記』『背教者ユリアヌス』など。その芸術至上主義とでもいうべきものに、ふかくこころひかれていたときがあった。そのような気持ちは、今でものこっている。

つぎのような箇所、

「なぜそれはそこにあるのか。なぜそれはそれであって、他のものではないのか。」(p.630)

「たとえば鳥が空をとんでゆく。それは日々気にもとめず見る平凡な風景である。だが、なぜ〈その〉鳥が〈その〉とき〈そこ〉を飛んだのか、と考えはじめると、平凡な風景が突然平凡ではなくなり、何か神秘的な因縁に結びついた現象(あらわれ)に見えてくる。」(pp.630-631) 〈 〉内、原文傍点。

このような箇所、まさに初期の『廻廊にて』に出てきてもおかしくはない。いや、まさに、『廻廊にて』から、一直線に『西行花伝』に続いているといってもよい。

とはいえ、この作品『西行花伝』を、このように読む気になってきたというのも、ある意味、私自身が年をとってきたせいもあるのかと思う。もうちょっと若いころであれば、国語学、日本語学というような分野に身をおいていると、この作品が、そう素直に読むことができない。どうしても、日本文学史上の西行という歌人を、そこに読みとろうとしてしまう。また、保元の乱などの時代的背景の描き方に目が行ってしまう。

しかし、もうこの年になってみると、そのような、些末な時代考証的なことは、どうでもよくなる。といって、まったく気にならないということではない。知識としては知っていることが、この作品でどう書かれているか、そうこだわることがなくなってくる。(無論、文学史的、歴史学的に正確なものであってほしいという気持ちがあってのことなのだが。)

それよりも、むしろ、著者(辻邦生)が、この『西行花伝』で、「西行」に仮託して述べている、その芸術観、世界観、人生観のようなものに、こころひかれるようになってきた。そして、それは、まだ若いころに、『廻廊にて』などに親しんだときの気持ちを、思い返すことでもある。

ところで、この作品、西行の生いたちから、その死までを描いているのだが、圧巻は、やはりなんといっても、保元の乱から、崇徳院の配流、そして、その怨霊、といったあたりだろうか。保元の乱について、一応のいきさつは知ってはいるものの、その後の崇徳院の讃岐配流、そして、怨念……これを、鬼気迫る迫力で描き出したこの作品は、一級の歴史小説でもある。

この『西行花伝』を読んで、昔読んだ『廻廊にて』などできれば読み返してみたい気がしている。それから、この作品の最後の方で、慈円が登場する。『愚管抄』も、きちんと読んでおきたいと思う。(とりあえず、どんな作品であるか、若い時にざっと目をとおしたことはあるのだが。)

ともあれ、西行研究、西行の評伝、というような視点を超えて、この作品はある。そして、そのような視点で読むことのできるような境遇に、ようやく、今の私はあるということでもある。

追記 2017-07-10
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月10日
『西行花伝』辻邦生(その二)
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