『月の満ち欠け』佐藤正午
2017-09-07


2017-09-07 當山日出夫(とうやまひでお)

佐藤正午.『月の満ち欠け』.岩波書店.2017
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2017年、第157回の直木賞作品である。かなり話題になった本であるので、特に私として付け加えていうほどのこともないだろうが、思うことをいささか。

輪廻転生の物語である。輪廻転生の物語といえば、誰でも思いつくのが、三島由紀夫の『豊饒の海』(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)である。これらの作品については、すでにこのブログで書いた。三島の書いた輪廻転生の物語は、その途中で破綻している。

それに対して、『月の満ち欠け』は完結した物語になっている。小説として破綻していることはない。さすが、佐藤正午が書いただけの作品ではあると思う。

佐藤正午は、小説をメタレベルで語る視点を獲得している。このことについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年9月4日
『鳩の撃退法』佐藤正午
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きちっとまとまった輪廻転生の物語になっている。強いて比較して言うならば、『豊饒の海』が輪廻転生という事実があるとして、それをそのまま受け入れる、あるいは、受け入れない、という視点で書かれているのに対して。『月の満ち欠け』は輪廻転生という事実を、なんとか理性的に受けとめようとしている。私は、そのように感じる。

この『月の満ち欠け』について、私なりに思うところを記せば、次の二点になるだろうか。

第一は、語りの視点の交錯である。

たぶん、このような印象は、『鳩の撃退法』を読んでいるか、いないか、によって幾分変わってくるかもしれない。『鳩の撃退法』のようなメタレベルの視点の作品を書きうる作家の書いたものとして読むとき、輪廻転生という事実の描き方、あるいは、その解釈の仕方も、変わってくる。より強く、そのようなこともあり得る世界のことを描いた小説なのである……このように意識することになる。

そして、これは『鳩の撃退法』とも共通することなのだが、その語り口のうまさ、語りの視点の転換のうまさが、特筆すべきものとしてある。この『月の満ち欠け』では、視点人物が、入れ替わり、交錯する。その交錯と、輪廻転生ということとが、うまくミックスして叙述されている。

『月の満ち欠け』のうまさは、ただ輪廻転生の物語を描いたことにあるのではない。それを、次々と関連する人物の立場を入れ替えながら交錯させながら描いた、語り口のうまさにあると、私は感じる。

小説とは所詮虚構である。が、その虚構を、どのような視点から描いてみせるのか、これはその作家によって異なる。この意味においては、佐藤正午は、小説は虚構であるということを、きわめて強く意識している。語られていることが、その時々の視点人物によりそっている。それを、別の視点人物から見れば、また別の描き方になる。これらの視点の錯綜するなかに、虚構としての輪廻転生というできごとが浮かび上がる。このような仕組みになっている。

第二には、「老い」の視点を作中に設定できていることである。

佐藤正午は、私と同じ年のうまれである。だから、というのでもないだろうが、「老い」の視点が、この小説にはある、と感じる。そして、このこと……「老い」の視点を設定していることが、重要になると思って読んだ。

『豊饒の海』がなぜ破綻した小説になったか、いろいろ考えることはできるが、その一つとして「老い」の視点を、描ききれなかったことにあると私は思う。三島は、45歳で、この小説を書き終えて、市ヶ谷にむかったのであった。三島は、「若さ」を描くことは出来た。しかし、「老い」を描くことには失敗していると、私は『豊饒の海』を読む。

以上の二点が、『月の満ち欠け』について、私の思ったことである。


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