2017-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)
斎藤茂吉.『赤光』(新潮文庫).新潮社.2000
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ふと、高校生の頃に読んだ短歌……それも学校の教科書に載っていたもの……を、読み返したくなった。『あの頃、あの詩を』を読んだ影響である。
やまもも書斎記 2017年11月23日
『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)
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今でもおぼえている。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
斎藤茂吉の短歌を読もうと思って、見てみると、いくつかある。岩波文庫版『斎藤茂吉歌集』。新潮文庫版『赤光』。それから、古本になるが中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』がある。
新潮文庫版『赤光』を読んでみた。
この本について、書いておきたいことは次の二点。
第一に、「歌集」というものを、これほどまでに一気に読んだのは始めてである。
日本語の歴史的研究という分野にいると、和歌集は目にすることがある。歴史的資料としてである。だが、近代の短歌になると、日本語史の資料としてあつかわれることは、まずないといってよい。これは、純然と文学作品として読むことになる。上代語の資料となると、「万葉集」などの歌の集が、まず資料としてうかぶ。
これまで、近代短歌にまったく無縁ということではないが……ある程度、有名なものは手にとってみたりした……だが、それほど、ある作品に傾倒するということなく、すごしてきた。今回、『赤光』(新潮文庫版)を読み始めて、ほとんど一気に全部を読んでしまった。
それほどまでに、『赤光』は、魅力的な本である。
読めば、それが「万葉集」につらなる歌風を継承しているものであることはすぐにわかる。しかし、それだけではない。近代の人間の感覚が、そこに詠み込まれている。「万葉集」からの伝統的な歌の世界と、近代の感性とが、融合した歌の世界がある。
斎藤茂吉の歌の文学史的位置というものについて、一通りの知識は持っているつもりであったが、そのような知識をもっているということと、自分自身が、読んで、そこに文学的感銘を感じるかどうか、ということは、また別のことでもある。この意味において、『赤光』は、はじめて私にとって文学作品として、現れてきたということになる。
これは、私も年をとってきたということもあるのかもしれない。そろそろ隠居的生活をおくりたい、本を読む生活をおくりたいと思っている。昔、若いころに読んだ文学作品など、もう一度手にとってみたくなる。そのようにして本を読んでいると、もう自分も年をとってしまったな、若いころのような感性で読むことはできないな、と感じる一方で、再び若いころの感性がよみがえってきて、作品にこころひかれることもある。
『赤光』は、まさに、今の私にとって「文学」……個々の歌もさることながら、歌集として……なのである。
第二には、その編集。新潮文庫版は、初版をもとにしている。
作品の配列をみると、新しいものから、古い作品へと、さかのぼって配列してある。新潮文庫版のもとになったのは大正2年の初版。これが、斎藤茂吉は、後年、成立順に配列をかえ、作品に手を加えている。大正10年の改選版である。中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』は、この新しい改選版によっている。
歌集であるから、どちらで読んでもいいようなものかもしれないが、書物として順番に読んでいくとなると、初版の方がいい。
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