『文学問題(F+f)+』山本貴光(その三)
2017-12-15


2017-12-15 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年12月14日
『文学問題(F+f)+』山本貴光(その二)
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この本の第三部は、「来たるべき『文学論』へ向けて」である。

まず、第一章で、『文学論』以外の文学論、として、漱石の『文学論』の他に、どのように文学について述べているかが、概観される。その中には『草枕』もはいっている。

第二章は、この百年の文学理論、である。漱石の『文学論』が出てから、今日までに、世界でどのような文学についての理論的な考察、論考がなされているか、その紹介。

第三章は、『文学論』再検討。他の文学についての理論的著作を見たうえで、さらに『文学論』について、論じてある。「F+f」では論じきれない、その他の要素についての考察と見ればいいだろうか。

第四章が、来たるべき『文学論』。これが、この本の一番の眼目だろうか。私の読んだ感想としては、この本の第一部の『文学論』の読解と、最後のこの章が、一番面白かった。

著者(山本貴光)の言わんとするところを、私なりに理解して、パラフレーズするならば……文学、それを、人文学一般と拡大解釈してもかまわないかもしれない……それが、何の役にたつのか、についての問いかけになっている。

私の理解では、文学……かなり広義に解釈しておくのだが……これは、人間にとっての〈環境〉なのである。人間は、文化的な存在である。その生まれ育った、文化的な〈環境〉のなかで、自己形成をなし、判断し、行動し、また、考えるところがある。それは、あたかも、地球や宇宙という自然的な〈環境〉のなかに人間がいるのと同じようにとらえることができるだろう。

生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける……このことばを、著者はつかってはいない。しかし、この本を読んだとき、私の脳裏に去来したのは、日本の古典を定位したこの宣言である。人間が人間として生きているかぎり、文学、さらに言い換えるならば、文化的〈環境〉のなかで生きていかざるをえない。

であるならば、その〈環境〉を、理論的に考察する「一般的文学論」が、存在する意義がある。

ここで〈環境〉ということばをつかって私の理解を示してみたが、どうであったであろうか。この『文学問題(F+f)+』は、究極的には、今日の社会にあって、人文学とはなんであるかの問いかけと、それに対する、著者なりの答えを示したものとして、私は読んだのである。

これが、この本の私なりの「F+f」である。

[文学]

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