2018-01-10 當山日出夫(とうやまひでお)
いつも水曜日は花の写真の日なのであるが、ちょっと変則的に『平成細雪』にする。(花は明日の予定)。日曜日の夜の放送なので、見てから(録画)文章を書くと、今日ぐらいになる。日曜日は、大河ドラマ『西郷どん』もあるので順番に書いていくと今日になる。
平成細雪
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『平成細雪』であるが……まず、確認しておかなければならないのは、谷崎潤一郎の著作権がすでにきれていることが、この番組の背景にあるだろうということ。谷崎潤一郎は、1965年に亡くなっている。保護期間が満了している。その作品はすでにPDである。自由に使うことができる。たぶん、このことがなければ、NHKは『細雪』(谷崎潤一郎)を原作にして、『平成細雪』を制作することはなかったろう。
『細雪』については、すでにこのブログで去年とりあげて書いている。
やまもも書斎記 2017年2月1日
『細雪』谷崎潤一郎(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/01/8346499
NHKのドラマであるが、原作『細雪』(谷崎潤一郎)を読んでいれば、なおのこと楽しめる。が、読んでいなくても、それなりにドラマの世界にはいっていけるように作ってある。
NHKの番組HPを見て気付いたこと、それは、このような文言があることである。
「失うほど、彼女たちは、華になる。」
以前、このブログに『細雪』について書いたとき、角川文庫版の解説(内田樹)について言及しておいた。それをもう一度確認しておきたい。
「『細雪』は喪失と哀惜の物語である。指の間から美しいものすべてがこぼれてゆくときの、指の感覚を精緻に記述した物語である。だからこそ『細雪』には世界性を獲得するチャンスがあった。」(pp.298-299)
「「存在するもの」は、それを所有している人と所有していない人をはっきりと差別化する。だが、「所有しないもの」は「かつてそれを所有していたが、失った」という人と、「ついに所有することができなかった」人を〈喪失感においては差別しない〉。谷崎潤一郎の世界性はそこにあるのだと私は思う。」(p.300) 〈 〉内、原文傍点
このドラマのHPの文言は、内田樹の解説をなぞっているかのごとくである。喪失と哀惜の物語として、『平成細雪』を作ったと理解される。そして、そのドラマは、まさしく現代……もう「平成」という時代(元号)の終わりが日程にのぼっているとき……になって、かつての時代……それを今では「バブル」ともいう……の栄華に、思いをよせている。
原作『細雪』も、失ったものへの哀惜の物語であった。その時代的背景としてあるのは、昭和初期の不況、日中戦争、太平洋戦争、である。NHK『平成細雪』の背景にあるものは、かつての高度経済成長からバブル景気を経ての、日本経済の崩壊と疲弊である。ドラマは、蒔岡の会社の破綻からスタートしていた。時代設定は、平成4(1992)年であった。まさに、バブル崩壊の時期に設定してある。
失ってしまったものこそ美しい。その哀惜の美学とでもいうようなものを、主演の四人の女優がみごとに演じていた。そして、それぞれの役柄の個性がいかんなく発揮されていた。
『細雪』の映像化というと、どうしても私などは市川崑監督の映画を思い出してしまう。吉永小百合が雪子を演じていた。そのイメージがあったのだが、NHKドラマでは、伊藤歩が、もし雪子のような女性が本当にいたならさもあらんという雰囲気を出していた。これはよかった。
雪子の性格というか人物造形は、今の時代にしてはどこか浮世離れしている。だが、それを、リアルに、そして、いくぶんの滑稽さを感じさせるように演じていた。ドラマの中の人物とはいえ魅力的であった。ひょっとすると、今でも、芦屋あたりには、このようなお嬢様がいるのかもしれないと思わせたりもする。
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