『やちまた』足立巻一(その四)
2018-03-24


2018-03-24 當山日出夫(とうやまひでお)

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続きである。
やまもも書斎記 2018年3月23日
『やちまた』足立巻一(その三)
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足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995)
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この本を読みながら付箋をつけた箇所。それは、著者が学生のころに『夜明け前』(島崎藤村)を読んでいるところである。例えば、次のような箇所。

「だが、内心では『夜明け前』によってはじめて明治維新を映像として知ったと思った。」(上巻 p.408)

著者(足立巻一)にとって、『夜明け前』は、同時代の文学であった。そして、それによって、明治維新ということを、文学的なイメージでとらえることができたと語っている。また、自らが学ぶ国文学、国語学という学問の源流として、平田篤胤から本居宣長にいたる系譜を、『夜明け前』を読むことによって確認している。

私の場合、たまたま今年が明治150年ということで、「明治」にかかわる本を読んでおきたいと思って、『夜明け前』を読んだのであった。そして、それにひかれるかたちで、『本居宣長』(小林秀雄)を読み、その次の本として、『やちまた』(足立巻一)を読んだことになる。いずれも再読。そして、『やちまた』のなかで、再び『夜明け前』にめぐりあうことになったのである。(このことは、再読するまで忘れていた。)

昭和の初め頃、明治維新は、過去のできごとであっても、まだ人びとの記憶の延長にあったことになる。例えば、『明治百話』(篠田鉱造)が出たのは、昭和6年(1931)である。現在は、岩波文庫版で読むことができる。

これもたまたまであるが、今読んでいる本は、『雪の階』(奥泉光)。二二六事件が舞台の小説である。昭和11年のこの事件は、戦後70年以上を経た現代にとっては、歴史のできごとであると同時に、記憶の延長にあるギリギリのところの出来事でもある。

ともあれ、今、明治150年ということで遠い過去の出来事として、かなり客観的な歴史的出来事として、明治のことを語る位置にいる。それを、70年ほどスライドして考えるとき、ちょうど昭和初期の時期……まさに二二六事件の起こったころであるが……明治維新という出来事は、まだ人びとの記憶の延長のうちにあるできごとであったことになる。そして、『夜明け前』のような小説、文学を通じて、より確かなものとしてイメージできるようになった。現代、『雪の階』で、二二六事件の時代を文学的にイメージするのと同じことかもしれない。

『雪の階』(奥泉光)については、読み終えたら思うことなど書いてみたいと思っている。

『夜明け前』については、
やまもも書斎記 2018年2月23日
『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村
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やまもも書斎記 2018年3月1日
『夜明け前』(第一部)(下)島崎藤村
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やまもも書斎記 2018年3月5日
『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村
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やまもも書斎記 2018年3月9日
『夜明け前』(第二部)(下)島崎藤村

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