『かもめ』チェーホフ
2018-07-09


2018-07-09 當山日出夫(とうやまひでお)

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チェーホフ.神西清(訳).『かもめ・ワーニャ伯父さん』(新潮文庫).1967(2004.改版)
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チェーホフの戯曲を読んでいる。

チェーホフの作品のいくつかを去年、読み返した。

やまもも書斎記 2017年10月19日
『かわいい女・犬を連れた奥さん』チェーホフ
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やまもも書斎記 2017年10月20日
『ともしび・谷間』チェーホフ
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やまもも書斎記 2017年10月30日
『六号病棟・退屈な話』チェーホフ
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そして、戯曲『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』である。神西清訳で、新潮文庫で読める。これら、今の本は、改版して字が大きくきれいになっている。解説を書いているのは、池田健太郎である。

まずは、『かもめ』から。

戯曲作家としてのチェーホフの名が、この作品によって定まったということらしい。

私の今の生活では、演劇というものを見ない。これまでの人生の中でも、演劇というものにはあまり接しては来なかった。(とはいっても、東京に住んでいるとき、国立劇場の文楽公演のかなりは見ているのだが。)

だから、演劇について素養があるというわけではない。戯曲という形式の文学作品として読むことになる。

『かもめ』、この作品も再読である。若い時、学生のころ、昔の新潮文庫版で目をとおしたことはあった。だが、特に、チェーホフの世界にひかれるということはなく過ぎてしまっていた。それよりも、ロシア文学といえば、ドストエフスキーを読む、そのような時代でもあった。

年をとってから、再び、チェーホフの戯曲を読んで見て、登場人物の台詞のなかに、この世界が凝縮されてあるような印象をうける。ドストエフスキーなどとは違った意味で、世紀末のロシアというものを感じさせる。そして、そこに強く共感する自分があることに気づく。

チェーホフの戯曲は、難解ということではないが、しかし、登場人物の関係が錯綜しているともいえる。様々な登場人物の相互の関係が、微妙にからまりあっている。一読しただけでは、よくわからない。二度、三度と、繰り返し読んで、ようやく、ストーリーの展開、そこでの登場人物の台詞の意味、というようなものが頭にはいってくるようになる。

『かもめ』も三回、四回ぐらい、去年から、読み返してみただろうか。

この作品、最後のシーンが印象的であるが……なぜ、このような結末になっているのか、ちょっと理解しかねるところがないではない。

だが、この作品の核心は、最後のところで出てくるニーナ台詞であろう。

「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だといういうことが、わたしにはわかったの。得心が行ったの。」(pp.120−121)

ニーナは、人生に失敗したかもしれないが、絶望してはいない。未来に希望を託している。この作品を読んでいって、終わりのところのニーナのこの台詞に、深い感銘をおぼえる。が、それも、最後のシーンで暗転してしまうのだが。

ともあれ、この後のチェーホフの作品『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』と、この未来への希望という方向に、発展していっていることは、順番に作品を読んでいくことによって理解されるところである。


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