2020-09-19 當山日出夫(とうやまひでお)
プルースト.高遠弘美(訳).『失われた時を求めて』第三篇「ゲルマントのほうU」(光文社古典新訳文庫).光文社.2018
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続きである。
やまもも書斎記 2020年9月14日
『失われた時を求めて』(5)第三篇「ゲルマントのほうT」プルースト/高遠弘美訳
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光文社古典新訳文庫版で六冊目である。
収録してあるのは、第三篇「ゲルマントのほうU」である。「ゲルマントのほう一(承前)」と「ゲルマントのほう二」をおさめる。
この冊も、これまでと同様に、巻末の読書ガイドから読んだ。それによると、『失われた時を求めて』を全巻読んだということは、特に人に語るべきことではない……という意味のことが書いてある。にもかかわらず、この読書ガイドでは、訳者(高遠弘美)が、若い日にこの作品を読んだときの経験が書いてある。
たぶん、訳者(高遠弘美)自身が、「スノッブ」を気取って見せているのかもしれない、そんな気がする。
この六冊目を読んで思うことは、次の二点ぐらいだろうか。
第一には、ヴィルパリジ夫人のサロンの描写。
一九世紀末のフランスのサロン、そこに集まるのは、貴族だか、高級娼婦(ココット)だか知らないが、彼らの会話を、思わずに読んでしまう。話している内容に共感するということはない。前提となる予備知識がなさ過ぎる。しかし、その会話の世界が、一つの文学的空間を形成していることは、読みながら感じ取るところである。
第二には、祖母の死。
これは、以前に岩波文庫版で読んだときも、この祖母の死のシーンは、印象に残るものであったことを覚えている。再度、光文社古典新訳文庫版で読んでみても、おそらく一人の人間の末期を丹念に描写した、屈指の文学的記述であると感じるところがある。
そして、ここの死を描写するところにおいても、その死をみつめる「私」の意識というものが、メタレベルから記述されることになっている。
以上の二点が、第六冊目を読んで感じるところなどである。
さらに書けば、この冊においても、ドレフェス事件のことが随所に出てくる。この事件が、一九世紀のフランスにおける重大事件であったことが理解される。そして、それにともなって、ユダヤ人ということが、たびたび出てくる。このあたりの感覚は、現代の日本において読んで、やはり理解がおよばないと感じてしまう部分である。が、これも、当時の西欧社会におけるユダヤ人の存在について、十分な予備知識があれば、分かるとろこではあろうが。
ともあれ、『失われた時を求めて』の光文社古典新訳文庫版(高遠弘美訳)の既刊分は読み終えたことになる。すでに書いたように、岩波文庫版、集英社文庫版で、全巻の通読はしたことがある。ここは、光文社古典新訳文庫版の続きの出るのを待って、順番に読んでいくことにしたいと思っている。
COVID-19で、なんとなく落ち着かない時である。このような時は、家にいることにして、「古典」を、そして、「芸術」を、「文学」を読んで時間をつかいたいものである。
2020年8月21日記
追記 2020年9月18日
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