『壮年茂吉』北杜夫
2021-10-23


2021年10月23日 當山日出夫(とうやまひでお)

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北杜夫.『壮年茂吉−「つゆじも」〜「ともしび」時代−』(岩波現代文庫).岩波書店.2001(岩波書店.1993)
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続きである。
やまもも書斎記 2021年10月18日
『青年茂吉』北杜夫
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四部作の二冊目である。ひきつづき岩波現代文庫版で読んでいる。

この巻には、茂吉の長崎時代のことから、ドイツ留学、そして、日本にもどってからの病院の火災とその再建の時代のことが描かれる。長崎の件をのぞけば、おおむね『楡家の人びと』をなぞっているといってもいいだろう。

読んで思うこととしては、やはりその子どもでなければ書けない視点であり、同時に、同じく文学の道にあゆんだ人間であり、そして、精神科医でもある……このような立場にあって、子どもが父親のことを書く部分と、それとは別に、茂吉の一人の読者として、その文学を鑑賞する部分との、微妙な交錯が、この評伝を面白いものにしている。

読んでいくと、北杜夫の、『楡家の人びと』は無論のこと、「青春記」「航海記」「昆虫記」のなかのエピソードにふれるところがある。これは、これとして、北杜夫の作品を理解するうえで、非常に興味深いところである。

また、この巻の最後は、芥川龍之介の死のことでおわる。その死に、ある意味で関係することになったのが、斎藤茂吉であったということは、この本を読んで知った。

あるいは、これは当然のことなのだろうと思うが、おそらく、斎藤茂吉という人物をほりさげていくならば、日本の近代短歌史のみならず、文学史のかなりの部分にかかわっていくことになるにちがいない。また、近代の『万葉集』の受容にも影響があるはずである。

だが、今では、斎藤茂吉というと、近代短歌の歴史のなかの一人という位置づけで終わってしまっているように思えてならない。これはいたしかたのないことかもしれな。近代、現代の短歌というものが、まさに文学でありながら、他のジャンルと没交渉の世界に閉じこもっている(あるいは、閉じこめてしまっている)という状況であると、感じざるをえないところがある。

この評伝の語るところは、近代短歌の巨人である斎藤茂吉をとおして見た、近代という時代であるともいえるだろうか。それは、北杜夫でなければ書けなかったものでもある。

しかし、一方で、年代順に斎藤茂吉の作品を紹介しつつ、その鑑賞、評釈にふれてある。すぐれた斎藤茂吉の作品への入り口にもなっている。

2021年9月23日記

追記 2021年10月28日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年10月28日
『茂吉彷徨』北杜夫
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[文学]

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