英雄たちの選択「江戸無血開城へのバトンリレー 幕末“三舟”×西郷隆盛」
2025-05-20


2025年5月20日 當山日出夫

英雄たちの選択 江戸無血開城へのバトンリレー 幕末“三舟”×西郷隆盛

命も金も名もいらぬ人は始末にこまるものなり、始末にこまる人でなければ本当の仕事はできぬものなり(だいたいこのような文言だったと憶えているが)、岩波文庫の『西郷南洲遺訓』にあったことばである。高校生のころに読んで感銘をうけたのを覚えている。今から半世紀以上も前の話であるが。

江戸城の無血開城についての、西郷隆盛と勝海舟の対面を描いたレリーフの壁画が、田町の駅の階段にあった。それを横目で見ながら、三田のキャンパスに通っていた。(これも今では、田町の駅もすっかり変わってしまっただろうから、どうなったのだろうか。)

幕末の三舟(山岡鉄舟、高橋泥舟、勝海舟)のことは、知識としては知っていることなのだが、具体的に何をした人物なのかということは、あまり知らないでいる。勝海舟については、『氷川清話』などは読んでいるし、幕末維新の物語ではよく登場する。(余計なことだが、その父親の勝小吉は、『夢酔独言』の著者として、日本語の歴史を勉強している人間なら、たいてい知っていることになる。)

高橋泥舟が、益満休之助をともなって、新政府軍(番組ではこう言っていたが、まだ明治新政府はできていない時なので、厳密にはどう称すべきなのだろうか)のなかを突破して西郷のところまで行った、ということ自体が、とてもすごいことである。

そして、西郷と面会して会談するのだが、その記録が残っている。明治15年になってから書いたものということである。これが、史料として、どれだけ信用のおけるものなのか、たしかに人間の記憶とは曖昧なものであり、後に自分に都合のいいように変わっていくということはありうることだとしても、この時代の緊迫した状況のなかでの会談として、そのことが鮮明に記憶に残っていたであろう、という考え方には、私は賛成する。

江戸無血開城というが、ことばを変えていえば、双方とも武力をコントロールできていた、ということになる。(一部には、暴発するやからもいたことになり、上野寛永寺で戦ったりしたことはあるけれど。)この、武力、軍事力を、どうコントロールするか、どうしてこれが可能であったのか、という観点から見るならば、やはり、西郷隆盛と勝海舟の功績ということになるのかもしれない。だが、そうなる前の、西郷隆盛との交渉ということでは、高橋泥舟の仕事は高く評価されるべきである。

それにしても、江戸時代を通じて、武士とはいったい何であったのか……それが凝縮されているのが、西郷隆盛と高橋泥舟の会談であった、ということもできるだろうか。自身が武士であること、主君に忠誠をつくすこと、このことのためだけに生きた人物といっていいだろう。そして、このような人間を必要としなくなったのが、明治以降の近代国家であるだろうか。

磯田道史が、人材ではなく人物、と言っていたことは、たしかにそのとおりだと思うが、ことばをかえていうならば、能力ではなく人格、ということになるだろう。能力は、ある程度数値化して比較が可能であるが(その典型が、英語の教師に求められるTOEIC何点ということであるが)、人格は他と比較のしようがない。そして、その人格の基礎にあるのが、広い意味での、本当の意味での教養である。

人格の陶冶というと、古めかしいことばになってしまっているが、再度、このことの意味を考えてみるべきである。

2025年5月14日記

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