『べらぼう』「寝惚けて候」
2025-05-26


2025年5月26日 當山日出夫

『べらぼう』「寝惚けて候」

世の中で何が野暮かといって、パロディの解説をするぐらい野暮なことはない。

『べらぼう』のこの回は、かなり苦心して作っただろうと思う。それでも、分からない人には分からない、ということで割りきっているかなという気もする。

狂歌というのは、根底にパロディと風刺がある。それは、説明してしまえば、その面白さや意図が、雲散霧消してしまうものである。

野暮を承知で書いてみると……『べらぼう』では描いていないが、江戸時代の出版文化としては、日本の古典の多くが板本として刊行された時代である。現代につづく古典、『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『徒然草』などの散文の他にも、『古今和歌集』『万葉集』などの歌集もたくさん刊行された。古典は本当に必要か、などと言っている現代とはちがって、古典文学が人びとの間で非常に尊重され読まれた時代でもある。このような古典文学作品の刊行があって、国学という学問がおこり、近代になって国文学という研究分野につながる。

ざっくばらんにいえば、江戸時代の教養ある武士や町人は、ものすごい古典の素養があったのである。それを背景にして、パロディ仕立てで楽しもうというのが、この時代の狂歌になる。

狂歌の会があって、読み上げられる狂歌を耳にして、ああこれはあの歌をふまえているな、ということがすぐに分かってこそである。実際に狂歌の会がどんな雰囲気であったかは分からないとしても、ドラマに描かれていたように、くそ真面目な雰囲気のなかでやるからこそ、その面白さがさらに楽しめる。楽しもうとして、今でいうバラエティでやってしまうと、逆に、面白さがなくなる。もちろん、歌の解説をしてみせるなどは、絶対にやっていはいけないことだったはずである。

だが、ここは、一回だけ、作者にその意図を語らせる場面があったが、これはギリギリの視聴者サービスである。(こんなものは無い方がいいに決まっている。)

岩波書店から『大田南畝全集』が出たのは、東京に住んでいるときだったが、これは、買って持っている本である。だが、今は、書庫にしまったままである。としをとったらこれを読んで楽しむような生活ができたらと思っていたのだが、もう、今となっては手にとろうという気にならない。老眼にはつらい本である。

2025年5月25日記

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