『べらぼう』「三人の女」
2025-07-07


2025年7月7日 當山日出夫

『べらぼう』「三人の女」

この回から、舞台は日本橋の蔦屋の店に移ることになる。

吉原のときは、吉原という場所の説明が現代の視聴者には必要だったかと思うが、日本橋の蔦屋になると、この時代の日本橋の商店の実際がどうであったか、ということが説明してほしいことになる。脚本としては、この部分は、必要最小限にとどめていたという印象である。

浮世絵を売るときの店の様子とか、奉公人の生活とか、このあたりはそうだろうと思うのだが、この店の奉公人というのは、具体的にどんな仕事をしていたのだろうかとは思う。食客というような存在は、蔦重の場合、たしかにあったのだろうとは思うところではあるが。

見ていて気になったことの一つが、「念者」ということばが出てきて、このことについては、特にナレーション(お稲荷さん)で説明がなかったことである。たいていの視聴者なら状況から分かったことだろうと思うのだが、解説があってもよかったかもしれない。

江戸時代以前、男性の性の相手が女性ばかりではなかったことは、歴史の知識として普通のことだろう。むしろ、中世から近代にかけてのヨーロッパ社会の方が、この種の性についてのタブーは厳しく、同性愛は犯罪であり、その反動が現代になってのいろんな運動……少なくとも、近いところでは、ウーマンリブの運動ぐらいがあって、性の解放が言われた時代があって、今にいたっている……このような経緯を思うことになる。(その現代の結果の部分のみを絶対的な尺度として、今の日本社会に杓子定規にあてはめて考えると、これはおかしなことになる、私としてはこのように思う。思想にはそれぞれの文化の歴史があるという認識が必要である。だからといって、今の日本のことを全肯定するというわけではない。)

説明がなかったこととしては、蔦重の母親のことがある。この回から突然の登場であるが、これは、脚本・演出の方針としていいだろう。見ながら私が思ったことを書くとこのようである……その仕事が、自分の店を持たない出張の髪結い、ということである。相手は男性である。この時代、江戸市中には男性の単身者が多く、そこに髪結いの出張の仕事があれば(そしてそれが女性であれば)、それは、ただ髪結いだけではなく、それ以上のサービス(?)があったことは、ごく自然なことである。おそらく、女性の職業としては、最下層の部類であっただろう。このての商売のなかには、髪結いの道具などはただのかざりにすぎなかった場合もあるかもしれない。蔦重の母親は実際に髪結いが出来たようだが。もうかなりの年齢のはずだが、その商売(?)ができたということだろうか。……ここは、視聴者の知識と想像にまかせるということなのか、あるいは、分からなくてもさしつかえないということなのか。私の勝手な思いこみか。

天明の飢饉である。田沼意次は、米屋の株仲間を禁止し、自由に流通させることを命じる。あるいは、幕府の管理する米を市場に放出する。この結果として、マーケットの論理にまかせておけば、または、強引に価格を下げるように市場に政治が介入すれば、米の値段は下がるだろう……という見込みであったことになるのだが、こんなことで、米の価格を幕府がコントロールできるようなら、飢饉などなかったことになってしまう。幕府政治は、ずっと続いていただろう。

江戸時代、米の価格がどのように決まったのかということについては、農業史や経済史などの分野で研究のあるところだと思っている。ただ、米は、食料として食べるしか消費の仕方がないものである。また、基本的に年に一回しか収穫できない。計画的に急に生産を調整できるようなものではない。しかし、天候の影響などで、飢饉となれば、生産量は一気に減少する。そのための救恤米(今でいう備蓄米)は、政治にとって必須であったことになる。


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