2025年7月30日 當山日出夫
新日本風土記 北海道 日高
再放送である。最初は、2022年11月4日。
日高といわれて、すぐにこのあたりと分かるかとなると微妙である。襟裳岬は分かるけれど。
馬を放牧するところ(昼夜)は、珍しいという。馬でも牛でも、夜は自分の家に帰って寝る、というのが普通の動物の暮らしということであろうか。
サラブレッドを飼育する高校がある。これも日高ならではのことである。映っていたのを見ると、学食の食事がとてもいいように思えたのだが、どんなメニューだったのだろうか。馬に限らないが、生きものを産まれるところから目にして育てるというのは、教育的には意味のあることである。(生物学などの勉強のために、マウスを育てて最終的には解剖することになる、ということをふくめて。)
映画館が残っているのだが、映画を見るというのは、現代では都市部での生活において、ちょっとした贅沢という雰囲気になってしまっている。維持コストを考えれば、さっさとたたんでしまった方がいいかと思えるが、そうしたくないのも、また人情である。
林業は、もうどうしようもないかもしれない。ごく一部の超高級木材を除いては、普通に日本の山間部で、林業が人の生活としてなりたつ社会や経済ではなくなってしまっている。林業という仕事は、木を植えても、その木が商品になるのは、自分の生きているときではなく、子どもの世代になってから、という時間のサイクルが非常に長い。これからの世の中で、林業はどうなっていくだろうか。少なくとも国土の保全、あるいは、自然環境保護、というような観点から、改めて考えなおさなければならないことだろう。それに投資してすぐもうかる、というビジネスの論理だけでは、無理だと思うが、さて、これからどうなるだろうか。
日高の昆布漁のために森林の再生が必要であった、という話しは知っている。これも、地域全体の自然の生態系を考えないと、漁業などもなりたっていかないことになる。見ていて、海に出ての昆布の収穫は、もうちょっと合理的な方法がないものかと思うのだが、現在のように小型の漁船がいいということなのだろうか。これも、いろんな権利関係があって、新しい方法に切り替えるということが難しいのかもしれないと思ったりする。
夏イチゴの農家は、昔は田圃でお米を作っていたという。減反政策で、転業をせまられたが牧場にできるほどの広さがなかったのので、ビニールハウスを建てて夏イチゴの栽培を始めた。今、北海道の米農家の実情はどうなっているのだろうか。
夏イチゴだけでなく、牧場、昆布漁、林業、それぞれの風景には、歴史がある。そこに生活してきた人びとの歴史がある……こういう視点で見ることができるのが、日本の風景ということになるだろう。
アイヌについては、いろいろと思うが、少なくとも、現時点で亡んでしまった民族ということではないけれど、しかし、その存在はきわめて形骸化していることはたしかだろう。だからこそ、逆説的に、アイヌという存在が観念的に先鋭化してくる。
その言語で日常生活がおくれるか、また、宗教や生活習慣、文化的価値を共有する共同体意識があるかとなると、はたしてこれからどうなっていくだろうか。
現在、地球上でホモ・サピエンスがどのような経路で、アフリカから出て世界に住むところを広げていったか、明らかになりつつある。このなかでは、民族、という概念も、改めて考えなおす必要があるだろう。DNA解析によって遺伝的に系統が同じ、違う、ということがあったとしても、それと、民族の文化の独立性、ということがどう関係するのか、これからの人類学、歴史学の大きな課題であるにちがいない。「想像の共同体」ということを、あらためて考えるべきかと思う。
2025年7月24日記
 
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