2025年8月9日 當山日出夫
ドキュメント20min. 誰かの日記を開くとき
登場していた三人のうち、三宅香帆なら、ドナルド・キーンのことは知っているはずだが、と思って見ていた。ドナルド・キーンが、日本文学に興味を持つようになったきっかけとして、太平洋戦争中に、アメリカ軍の語学将校として、日本兵が残した手帳や日記を読んで分析する仕事にあたった、ということは知られていることだろう。これは、アメリカ軍を驚かせたことでもあった。軍隊の行動の記録を残して、敵の手にわたってはいけない。だが、日本軍は、これを黙認していた。
また、日本軍の士官学校の教育においては、生徒が日記を書くことが義務づけられていた。教員は、それを読む。一種の思想教育という側面があったことになる。
そもそも日記を書くということ、その文化的な基盤が、日本は独自のものがあるのだろうとは思う。だからこそ、このような番組がなりたつ。そして、日記のコレクターがいるし、そこに自分の日記をわたす作者(?)がいることになる。
柳田国男など読んでいると、文字を知らない人びとの世界、ということに非常に興味を持つことになる。非識字の人びとにあっては、日記など、まったく無縁のものだろう。それが、近代になっても続いてきた。
一方、豪農クラスになると、細かな日記(むしろ、業務のための資料、あるいは、今日の視点からは史料というべきか)が残っていることが多い。これは、文学というより、歴史学の視点からであるが。
日記という「メディア」があり、そこで、文章にするということがある。そこには、日記に書きたい自分があることになる。むしろ意味があるのは、日記のなかには書かないでいる自分のこと、であるのかもしれない。メディア論的に日記を見ると、また別のことが考えられるかもしれない。
2025年8月5日記
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