2025年8月24日 當山日出夫
『あんぱん』「手のひらを太陽に」
このドラマは世評は高いようなのだが、どこがいいのか、私にはさっぱりわからなくなってきている。この週について見ながら思ったことを書いておく。
この週で、「アンパンマン」の誕生となるのだが、その経緯について、まったく説得力のある描き方になっているとは感じられない。(このところについては、見る人によっていろいろだろうとは思うが。)
金曜日までの放送を見て、やはりおかしいと感じる。戦後まもなくのころのセットがそのままである。まあ、嵩とのぶの住む部屋は、家財道具や家電製品が増えたりしているのだが、ずっと中目黒の長屋のままというのは、どうなのだろうか。向かいのアパートの蘭子も同じままである。喫茶店も、内装をはじめ観葉植物も変化がない。普通は、作品が売れるようになったら、仕事部屋を確保できるような住まいに引っ越すだろう。スタジオのセットを作る都合で、といってしまえばそれまでなのだが、それでも、なんかおかしいと感じる。
のぶが述懐するのだが、自分は何者にもなれなかった、と。父親に、女でも大志をいだいてよい、と言われたが、教師としても、代議士秘書としても、会社員としても、なんにもできなかった、と。これまでのストーリーとしては、そのとおりなのだが、この時代(昭和30年代)、東京に住んでいて、電話があって、テレビや冷蔵庫や電気洗濯機があって、専業主婦で生活できる……こういう生活に不満をもつということが、私には、どうしても納得できない。この時代としては、かなり裕福な生活である。少なくとも、この時代の社会の一般的な価値観がどうであって、そうであるとしても、自分はこう思うのである、という説明的な部分があってもいいと思うのだが、一切そういうことは出てきていない。
この時代のことを、生活の実感として覚えている人は、このドラマを見なくてよろしいと言われているような気がする。こういうことは、今の時代の先端的な価値観からすれば当然のことであっても、昔のその時代のことを知っている人間にとっては、納得がいかないことなのである。
このドラマは、もはや「時代劇」なのである。「時代劇」はリアルな江戸時代ではない。虚構の時代である、ということは、常識的なことだろう。今では、戦後から昭和30年代ぐらいまでの時代を舞台としたドラマは、「時代劇」として描くようになっているとしか思えない。だからこそ、この時代にはなかったような、まさに現代的な発想をする登場人物が出てきても、すんなりと共感することができる(視聴者もいる)、ということになる。
いくつか気になったことを書いておく。
高知から、コン太がやってきて、高知の朝田の家を食堂にするという。これはいいとしても、その食堂の名前を「たまご食堂」にしたいという。その由来は、中国戦線での思い出にある。(農家に押し入って、老婆を銃でおどして、たまごを強奪した一件である。このとき、老婆は、たまごをゆでてくれた。)
さて、このような体験があるとして、食堂の名前に「たまご食堂」として使いたくなるだろうか。普通の人間の心理としては、こういう過酷で残酷な体験とともにある場合、たまご、あるいは、ゆでたまごは、どうしても食べることが出来ない……というふうになるのではないだろうか。私には、この方が、人間の心のあり方として、自然であるように思えてならない。(強いていうならば、こういうところが、このドラマの脚本が、人間の心のうちの奥底にあるものを描き損ねていると感じることになる。)
また、こういうエピソードとして戦時中のことを想い出すというのは、戦争の描き方が浅薄であると言われてもしかたないだろう。
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