知恵泉「シーボルト スレスレすぎる情報収集術」
2025-08-29


2025年8月29日 當山日出夫

知恵泉 シーボルト スレスレすぎる情報収集術

シーボルトについては、これまでも何度もテレビ番組でとりあげられてきている。どういう見方で考えるか、というところが見どころか、ということになる。

そもそもシーボルトが日本にやってきた目的が、情報収集……諜報活動というといいすぎかもしれないが……であったということが、まずある。しかし、それならば、それまでの、オランダ商館の人たちは、何をしていたのだろうか。長崎の出島を通じて、日本が西洋の情勢について、タイムラグやかたよりはあっても、かなりの情報を得ていたとは言われている。とすれば、同時に、オランダとしても、日本についての情報収集があったはずなのだが、その実態はどんなものだったのだろうか。インドネシア地域を殖民地とするなかで、日本との交易や、東アジア地域に情報収集はどんなだったのだろうか。オランダの立場から見た解説があってもよかったかと思う。

シーボルトのコレクションの一部については、日本で展覧会があって見たことはあるのだが、何よりも驚くのは、江戸時代の普通の人びとの日常生活の道具類が、ほとんどそのままの形でたくさん残っていることである。どういう理由で、こういうものが、シーボルトのもとに集まったのか、これは是非とも知りたいところである。これらは、当時の日本の人びとにとって、あまりにも日常的すぎて価値があるとは認識しづらいものであったにちがいないと想像する。それらを集めた方法とかは、どんなものだったのだろうか。

これは、シーボルトが、当時の日本での弟子たちにご褒美としてドクターの称号を与えるということでものや情報を集めた、ということよりも、私にとっては、日本の日常生活の品々を集めた経緯の方が気になるということになる。

シーボルト事件については、教科書的な知識しかもっていないが、地図というのが、この時代において、(現代でもそうだが)重要な軍事情報であることは、もっと一般に認識されていいと思う。北方からはロシアが日本をねらっており、イギリスが極東にちかづいてきているなかで、オランダとしての国家戦略はどうだったのかということも考えることになる。

映っていたシーボルトの残した植物標本だが、映っていた範囲での判断になるが、植物の根から採取したものではなかった。これは、今なら、根の部分まで採取して標本にするところだろう。また、なかに、TYPE、と表示してあるものがあったが、これはタイプ標本ということなのだろうか。

欧米やロシアの帝国主義の時代であり、この時代は、同時に博物学という学問があった時代でもある。今でもまったくなくなったということではないが、未知の世界への興味関心と国家の野心と、不可分の時代であったともいえよう。

番組の中で言っていたこと、全能感に溺れてはいけない……それはそのとおりである。私の思うこととしては、学問……人文学の世界でも……瞬間的には、この分野のこの研究テーマ、この文献についての調査、ということでは、トップに立つことは、そんなに難しいことではない。それよりも難しいのは、研究の先頭集団の中に位置し続けることである、と、もうリタイアした身として思うことである。

2025年8月27日記

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット