2025年9月25日 當山日出夫
新日本風土記「津軽晩夏」
津軽といってイメージすることはいろいろとある。太宰治のことは、思いうかぶことの一つである。(この番組のなかでは、ほとんど触れることはなかったが。)それから、あまり普通の人は思わないかもしれないが、『渋江抽斎』(森〓外)がある。渋江抽斎の蔵書印は、「弘前医官渋江氏蔵書記」である。
あまり大きくとりあげていなかったことの一つは、ねぷた、であった。弘前の祭りになるが、これは、これまでいろんな番組でとりあげられてきたので、冒頭に軽くふれる程度だった。
津軽三味線は、私の年代だと、高橋竹山(初代)が、その時代のいわばヒーロー的な存在だったことを、記憶していることになる。これは偏見だろうが、津軽三味線の音は、三味線という楽器が自然に出す音で演奏しているのではない、という印象をずっと持ってきた。津軽三味線は、弦楽器ではない、打楽器である、ということばを聞いて、なるほどと思ったところである。おそらくは、津軽の厳しい風土の中での門付け芸として起こったものとしては、激しく鋭い音色の音楽になるのかと、思ってみることになる。
青森といえばリンゴだが、収穫のために余分な実を落とすのは理解できるのだが、あんなにたくさんの実を省いてしまうことになることは、知らなかった。(落とした実は、どう再利用されるのだろうか。)
オシラサマは、民俗学の知識としては知っていることである。今でも家の中にお祀りして、毎日、ご飯をそなえて、また、外にも連れ出す。まだ、生活の中にオシラサマが生きているということを感じる。オシラサマには、新しい服を着せる。これが、古風な地味なものでなく、派手でキラキラしたものであるというのも、オシラサマには、きれいな姿でいてほしいという、人びとの気持ちのあらわれである。こういうことを見ると、まさに、まだ生活の中に生きているということを、強く感じる。
賽の河原地蔵も、興味深い。昔は、人が死んで死体を野辺に捨てていた(らしい)ということだったが、日本における葬送儀礼は、さまざまな歴史がある。現在のように、火葬してお墓に納骨して、というスタイルが一般になったのは、かなり新しい。少し前までは、日本でも土葬が多くおこなわれていたことである。京の都でも、鳥辺野や化野のあたりは、いうなれば死体の捨て場、だったといっていいだろうか。火葬もおこなわれるようになり、いろいろと歴史的変遷と多様性のあることがらになる。
ここのお地蔵さんも、新しい服を着せてもらっている。
イタコの口寄せが、テレビの映像として映るのは、めずらしいかもしれない。こういう人がいて、また、それを信じる人がいて、こういう人びとの心性ということが、地域の生活の中で伝えられていくことになる。
津軽地方に鬼にまつわる神社があるというのは、どういうことなのだろうか。一般には、鬼は異界のものであり、非常に今日的な解釈をするならば、この土地に入ってきた人びとより先に住んでいた、いわゆる先住民ということになるだろう。場合によっては、それは、山の民であったかもしれないし(柳田国男にならっていえば)、あるいは、古来よりこの地域に住んできたアイヌの人びとであったのかもしれない。(番組では、こういうところには踏み込んでいなかったが。)
カヤとワラで船を作って、川を流す行事。今の時代だと、ワラは、それをとるために特別に稲刈りをしないと手に入らないものになってしまっている。コンバインの使えない、山の中の棚田で、手で稲刈りをするようなところは、たしかに、日本に残っていることではあるが。
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