映像の世紀バタフライエフェクト「銀座 百年の記憶」
2025-11-15


2025年11月15日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 銀座 百年の記憶

昔、学生のころ、京橋にあったフィルムセンター(これは今では、国立映画アーカイブ)によく行った。ちょうど『ぴあ』が刊行になったころで、上映情報を見て行った。信じられないことだが、そのころのフィルムセンターは、ガラガラだった。

夜、フィルムセンターで映画を見ての帰り、京橋から、銀座通りを歩いて有楽町まで行った。山手線に乗るということもあったが、同時に、京橋の交差点を曲がって和光の方に向かって歩く、その銀座の夜景が美しかったからである。

銀座では、並木座の存在も忘れることができない。

銀座の街が、繁華街として人びとの集まるところになったのは、関東大震災があって、帝都復興の後である、ということは、一般的な知識だろう。明治の銀座は、レンガ造りの建物の並ぶエリアであったが、関東大震災で崩壊したということになる。だが、その整然とした街区のエリアは、残ったことになる。

銀座の街の物語としては、そう目新しいものではなかったかなと思う。これまでの、映像の世紀のシリーズとして新し話題としては、笠置シズ子とパンパンの女性たちのこととか、銀座の夜の女性たちのこととか、であった。(太宰治の写真が出てくるかと思っていたが、出てこなかった。)

一方で、銀座は、人びとの生活する街でもあった。学生のとき、慶應義塾大学の国文科だったので、池田彌三郎先生に習う機会があったが、池田先生は、銀座の天ぷら屋の生まれである。その時代、すでにその店(天金)はなくなっていたが。

調べてみると、今でも、泰明小学校は残っている。それだけ地元に人がいる、ということなのだろう。

出てこなかったのが、日劇ミュージックホール、それから、朝日新聞社のこと。

2025年11月12日記

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