2025年12月3日 當山日出夫
未解決事件 File.07 ベルトラッキ贋作事件〓世界をだました希代の詐欺師〓
それに「美」を感じることができるのなら、それでいいじゃないか。私は、こう思うだけのことである。
だまされた美術館の学芸員が見る目がなかったというわけではない。その持っている、「美」というものについての認識が、きわめて近代的な、ある意味で歴史的にみればきわめてかたよったものであること、このことに無頓着にすぎることに、気づいていないだけのことである。(いや、分かっていて知らないふりをしている。私には、これは喜劇に見える。)
「美」、あるいは、「芸術」というものを、個人のオリジナリティの表現であるというような芸術観は、きわめて近代的なものである。前近代まで、「美」とはそういうものではなかった。
絵画や彫刻などは、「工房」で作ることもあったはずである。たまたまその「工房」の代表者が、作者として名前が残っているだけのことである。
私が知識のある範囲でいえば、古い時代の日本文学については、歌の代作というようなことは、ごく普通におこなわれていたことである。『源氏物語』については、宇治十帖別作者説があるが、だからといって、文学作品としての『源氏物語』の価値がどうこうなるものではない。また、本居宣長の「もののあはれ」の論が、無効になるわけではない。
自然にあるもの、たとえば、富士山でもいいが、これに「美」を感じる人はいるだろうが、富士山に個人としての作者がいるわけではない。(こういうことは、漱石の『三四カ』の車中の会話であるが。)
近代、現代の感覚として、芸術作品は、それは何かを表現したものであり、それを想像した個人の個性があってのことである、それはオリジナルでなければならない……これは、歴史的にみれば、あまりにも、偏屈な考え方であると私には思える。
前近代には、師匠の作品そっくりに描くことが絵の上達であった時代があったことは、美術史の常識であろう。現代でも古典芸能においては、まず師匠の芸の模倣である。そっくりになることである。
無論、芸術論の問題として、「美」というものが人間の外に客観的に存在する何かであるのか、それとも、人間のこころ(現代なら脳というべきだろうが)の中に生じる何かなのか、これは古くからの議論があることは、承知しているつもりである。
将来、ベルトラッキの作品が芸術として評価されて、高額で取引される、美術館でも大事にする時代がきてもおかしくない。ベルトラッキ美術館ができるかもしれない。いや、絶対に、そういうことになるだろうと私は確信している。このときには、高知の美術館のお宝になるにちがいない。大事に保存しておいた方がいい。
このようなことは、番組を作る側でも分かっていることだろうと思う。見ていて、その作品に「美」を感じるかどうか、ということについては、基本的に言及することがなかった。しかし、そこに「美」を感じることがあるからこそ、芸術であったはずである。作者が誰であろうと、そこに「美」を感じることができるかどうか、見るものが、自分の感性に正直になれば、それでいいだけのことである。自分の感性に正直なれない、何かの権威(それが作者ということになるが)で見てしまう、これが精神の貧しさでなくて何だというのだろうか。
「美」を感じることがないにも関わらず(感じてもいいのだが)、誰それが描いた絵であるからということだけで陳列している今の美術館の存在こそが、非常に欺瞞的であることに、気づくべきなのである。
現代の人間の「美」についての思いが、いかに貧相なものになってしまったかを象徴する事件であり、長い文化の歴史の流れのなかで見れば、ベルトラッキの言っていることが、むしろまともなのである。現代の日本よりも、ヨーロッパの人びとの方が、「芸術」を分かっている。
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