ARG311平等院
2008-02-26


2008/02/26 當山日出夫

実は、高校生まで京都の宇治に住んでいたので、平等院近辺までは、よく散歩にあるいた。行きは徒歩、帰りは京阪電車。平等院鳳凰堂は、何度か、参拝している。(ただ、個人的には、阿弥陀像としては、日野の法界寺のものの方が好きなのだが。今は、どうなっていることか。)

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国宝などのデジタル化、それはそれで、非常にすばらしいのだが、やはり、ここで問いかけておくべきことは、「誰のために」「何のために」ということである。

この意味でいうと、仏像のような、立体的なものを、2D画像で見ることに、いくぶんの問題を感じないではない。おそらく、専門の、美術史研究者であるならば、2D画像からでも、十分な情報を読み取れるだけの、学識を持っているであろう。だが、これを3Dで残せるとなるとしたら、さらに、有意義である。

仏像は、それを見る視点によって、様々に表情を変える。代表的な写真家でいえば、土門拳と、入江泰吉の違い、のようなものである。

また、平等院鳳凰堂に実際に行ってみれば、すぐわかることであるが、中に、「人間」の存在する場所は無い。その空間は、「阿弥陀仏」のためだけに作られている。このようなことは、やはり実際にその場に行かないとわからないことである。

平等院のHPのような形(位置関係)で、阿弥陀像を拝することは、実際には不可能である。このあたりの経緯は、岡本さんが紹介の、

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3億5,000万画素の平安美を未来に伝える「平等院」

に掲載の撮影風景を見てもわかる。

平等院の阿弥陀仏は、たしかに、平安朝における浄土信仰、その美術的表現の最高峰に位置するものであろう。だが、その阿弥陀像は、その当時のひとたち(それも、最高位の公家たち)にとって、どのようなものであったか。高精細デジタル画像があるからといって、それで、わかるというものでもない。

だからといって、国宝などのデジタル化を否定するものではない。「誰のために」「何のために」そして、そこから、「何がわかるのか/わからないのか」を、常に問いかけていくことが、大事だと思う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

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