問題な文字
2008-03-07


2008/03/07 當山日出夫

人文情報学シンポジウムをめぐって、いろいろ議論がさかんである。特に、文字・キャラクタをめぐって。

現時点での最新のものとしては、次のようなものであろうか。これらのコメントやトラックバックをたどると、なかなか面白い。

もろさんの、hi-2008に向けて (2)

[URL]

小形さんの、「束縛」という視点について (3)

[URL]

ここでの議論からはずれることを承知で、とりあえず、自分の考え方の基本的スタンスをまとめてみたいと思う。

一般論になるが、日本語研究という立場にいると、まず、次のように考える。近年のベストセラーのひとつが『問題な日本語』(北原保雄、大修館書店)であることは、周知であろう。

あくまでも私見であるが(そして、やや誇張してであるが)、日本語研究者は、「問題な日本語」とは考えない。それよりさらにメタのレベルで、「問題な日本語があるという意識」の存在の方を考える。言い換えれば、日本語における規範性意識とはどのようなものであるのか……ということになる。

絶対的な「正しい日本語」がある、という意識が、日本語においては、かなり根強いものがある、とはいえそうである。でなければ、「問題な日本語」が話題になることがない。

この延長で考えれば、正しい文字・文字の規範性とは、いったい何であろうか。「常用漢字(当用漢字)」の字体(新字体)は、正しい文字であるかどうか。これを「正しい文字」と認識する人もいるだろうし、あるいは、康煕字典体が「正しい字」であって、常用漢字体は、略した字であると、考える人もいる。

これは、どちらの立場が正しいか、正しい文字はどれか、ということではない。多様な価値観があることを、客観的に語るとどうか、ということである。

さらにいえば、近代になってからの「国語」「標準語」をどの方向で考えることになるのだろうか……ただ、現在の日本語研究者の多くは、このような視点を超克しようと模索している、とはいえそうである。

正直いってあまりかかわりたくないが……文字の規範性の問題は、「国語」の問題でもある。近年の国語学批判を超えたレベルから、総合的に考える視点を確保したい。このあたりが、今の私の基本の立場だろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)


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