2009/03/11 當山日出夫
この問いかけには、こたえなければならないだろう。
松田清さん 松田清のtonsa日記 2009年3月8日 機関リポジトリー
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ここで松田さんは、
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情報人文学あるいはデジタルヒューマニティーズと呼ばれる現象(まだ学問として確立されていないので、あえて現象といいます)は何か、何をもたらすか。単なる人文学(的成果)の情報化か。情報化は人文学(的精神)の衰退、哲学の貧困ではないのか。などなど疑問は尽きません。
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と指摘している。
「デジタル・ヒューマニティーズ」という「日本語」を「発見」したのは、立命館である。ただ、英語で、Digital Humanities であれば、たくさんある。
それを、日本においては、CH(C=Computer、H=Humanities)、あるいは、「じんもんこん(人文科学とコンピュータ)」の語で、表現してきた。「デジタル・ヒューマニティーズ」という語の新しさの意図は、(これは、この語を発見した先生のことばであるが)、「コンピュータ」という語をはずして考えてみたい、というところにある。
ただ、英語圏においても、「ALLC」や「ACH」と「C=computer」と、称されていたことは確か。それが、近年になって、DH(Digital Humanities)へと統合される流れにある。
コンピュータは確かに道具である。だが、その道具の使用は、それを使う人間の発想を変える。これは、やむをえないだろう。そのときには、コンピュータを使う人文学から、デジタル環境下での人文学、というべきものになる……というのが、基本の考え方であると、私は理解している。
大雑把にいって、メディアの変革が、人文学を大きく変えてきたことは確かだろう。日本においても、近世になってからの版本による商業出版の成立、また、明治になってから活字印刷による書籍の刊行と流通、さらには、教育システムの変革。そして、今、デジタルの時代にいる。
ここで我々は何をなすべきか。座して衰退をまつか。亡びるものは亡ぶべくして亡ぶ。あるいは、どこかに活路を見出すか。となれば、デジタルを基盤にした人文学知という方向しかないであろう。
だが、その先は見えない。
當山日出夫(とうやまひでお)
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