国を国旗であらわしていいか(その二)
2016-07-04


2016-7-04 當山日出夫

すでに書いたことである。
やまもも書斎記:国を国旗であらわしていいか
2016年6月29日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/29/8120547

このつづきを書いてみようと思う。

なぜ、国を国旗で表象することに、違和感を感じるのであろうか。一般にテレビのニュース、スポーツの国際大会などでは、ごく普通に行われていることである。だが、それが、大学の教室にもちこまれると、なにか居心地の悪いような感じがどうしてもしてしまうのである。

たぶん、それは、国旗で表象するという行為のもつ、ある種の排他的性格に起因するのではないかと思う。国旗は国のシンボルである。そこには、統合の求心力がある。

しかし、それは、同時に、その国旗を受け入れることをいさぎよしとしないものを、排除・疎外するものでもある。

国旗には、このような二面性があるいってよいだろうと思う。強いていうならば、国旗を提示することは、「踏み絵」をつきつけるような行為に通底するものがある……と、私は感じるのである。そして、これは、一般社会はともかく、「大学」の教室という場所では、あまりふさわしい行為とはいえない、そのように私は感じる。

私自身は、日本国民として、日章旗を、我が国の国旗として認める立場をとる。ナショナリズムといってもよい。そのことに自覚的であるつもりでいる。

しかし、同時に、そのナショナリズムが、排他的なものであってはならないとも考える。あるいは、国旗を「踏み絵」のようにつかってはならないといってもよいであろう。

国旗をつかってよいのは、やはり場所を選ぶ。それは、国家(国民国家)を表すものとして、それが使われるときである。公的な外交の場面、国を単位とした国際的な行事の場面などでは、国のシンボルとして問題はない。

だが、そのようなものに対して、意識的/無意識的に距離をおこうとしているのが、「大学」という場所である。少なくとも、日本の今の「大学」は、そのような傾向が強いと感じる。いくらグローバリズムがいわれていようとも、いや、だからこそというべきか、国旗をもちこんだときに生じるある種の暴力的な排他的性格に、敏感である。「国」という単位ではとらえることのできない、各種の多様性……民族・言語・宗教・文化……といったものの多様性を尊重する場所であるといってもよい。このような場所に、やはり国旗はふさわしくないと感じてしまう。

だいたい以上のように、現時点では考えている。

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