半藤一利『日露戦争史 1』
2016-08-21


その当時の「民草」の目から見ると政府のうごきはどうであったか、戦争にいたるまでの「民草」の反応はどのようなものであったか、そのような視点からの叙述が、随所にいれられている。時代の動きそのものを主人公にしたというのでもない。また、政府の誰か、国民の誰かをを、主人公にしたのでもない。「民草」ということばでしか表せないような、多くの国民の一般の視点を、取り込もうとしている。そして、作者自身も、時代という大きな流れのなかにあっては、「民草」の一人にすぎないという自覚をもって書いてある。

この意味では、最近の半藤一利の本、『B面昭和史』に重なるところがある。

半藤一利.『B面昭和史−1926-1945−』.平凡社.2016
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以上の二点を考えてみたが、このような点が、「歴史小説」でもないし、「歴史書」でもない。だが、「歴史」をあつかった読み物としての「歴史探偵」という呼称の背景にあるものだと、私などは思う。

ところで、第一冊目を読んだところまでで、重要だと思うところを、さらに二つほど、あげておく。

第一のこととしては、上述のこととも関連するが、たとえば、広瀬武夫のエピソードについての、あまりにそっけない、あるいは冷淡ともいえる記載である。広瀬武夫の旅順港閉塞作戦は、日露戦争における重要なエピソードである。なにせ、「軍神」なのであるから。司馬遼太郎も、また、NHKドラマも大きくとりあげていた。いや、NHKドラマでは、主人公(秋山真之、秋山好古、正岡子規)につぐ重要な人物として登場していた。司馬遼太郎の原作にはないロシア留学の場面にかなりの分量をつかっていた。その広瀬武夫についての、あまりにそっけない記述は、読んでいてうっかり読み過ごしてしまいかねないほどである。

章末の注でさりげなくふれてあるが、広瀬武夫のことはあまりにも有名なので、大きくとりあげなかったとある。このあたりを見ると、『坂の上の雲』を読んでいる、あるいは、軍神広瀬中佐のことを知っている、場合によっては、歌も知っている、ということを、読者の前提として書かれていることになる。

この意味では、やはり、この本は、読者とともにある現代という時代を意識して書かれている本、ということになる。

第二のこととしては、上述のように、はっきりと自覚的に現代の視点から、日露戦争を見ていることである。

それは、たとえば、折に触れてでてくる、太平洋戦争当時の日本との比較である。端的には、明治の時代のリアリズムといってよいであろうか。日露戦争にあっては、決して簡単に勝てるなどと、指導者は思っていなかった。何よりも重要なことは、戦争を始めるにあたって、それをどう終わらせるかということを、視野にいれていたことだろう。アメリカを仲介とした和平工作を、戦争開始にあたってすでにはじめている。このあたりの現実的な感覚は、後の太平洋戦争、それ以前の日中戦争をはじめるにあたっての日本の指導者のあり方と、きわめて対照的である。

なにかことをはじめるのは簡単かもしれない。しかし、同時に、それを始めるときには、どうやってそれを終わらせるかを考えなければならない……日露戦争当時の日本の指導者には、このような現実的な感覚があった。

現代の視点から、太平洋戦争当時の日本のありさまをふりかえるとき、かつての日露戦争のときの日本のあり方が、きわめて重要なものとしてうかびあがってくる。このような記述がいたるところにある。

上記、二点、さらに思うことを書いてみた。この本、のこる第二巻、第三巻とある、読んでから、思ったことなど書いてみたい。

追記
このつづきは、
半藤一利『日露戦争史 2』
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