松本健一『「日の丸・君が代」の話』
2016-08-22


2016-08-22 當山日出夫

松本健一.『「日の丸・君が代」の話』(PHP新書).PHP研究所.1999
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この本、いまは、品切れ重版未定ということらしい。

オリンピックで、日の丸・君が代を目にする、耳にすることが多い。個人的な感想を先に述べておくならば、私は、日の丸・君が代を、国旗・国歌として認める立場をとる。そのうえで、それがどのような場面でつかわれるべきかについては、慎重な判断がもとめられると思っている。

オリンピックのような、基本的に国(国民国家という擬制の上になりたつものかもしれないが)、その国家を基本の単位として、選手たちがが集まり、競技をきそう。そのような場面においては、国旗・国家というものは必要であると思うし、それなりの礼節をもって扱われなければならなないものだと思っている。

だが、その日の丸・君が代の歴史となると、意外と知らないことに気づく。本棚からとりだしてきて読んでみることにした。

ここでは、日の丸(日章旗)について、著者(松本健一)の言っていることを見ておきたい。

松本健一という人は、ナショナリストだといっていいと思っている。(これは、決して批判しているわけではない。自覚的に、そのような立場をつらぬいた、そして、そのことの意味を考え続けた人間であると思うだけのことである。)

まず、次のような認識の確認がある。

「日本とはどういう国で、日本民族はどのような歴史を生きてきたのか。「日本」という国号はいつごろ生まれたのか。それはどういう文化に拠っているのか。あるいは皇室とはいつごろできて、どういう制度的・文化的な根拠があるのか、ということを一度明らかにしなければナショナル・アイデンティティの議論は明確にならない。」(p.45)

確認しておけば、この本は、1999年の本。東西冷戦が終わり、新たな国際社会の秩序をそれぞれの国が模索しているような状態のなかで、日本のあり方はどうあるべきか、という視点から書かれている。

まず、日の丸は、古く『平家物語』の時代から確認できるとある。那須与一の射貫いた扇は、日の丸のデザインであったと指摘する。

そして、この日の丸は、幕末になって、日本がいやおうなく開国をせまられる状況においこまれたなかで、日本国のシンボルとして歴史のなかで登場することになる。時の幕府は「日本国総船印」を定める必要があった。そこで選ばれたのが日の丸ということになる。

そして、この日の丸は、戊辰戦争のとき、幕府軍の使うところともなった。日の丸を掲げることで、その正統性を主張したのである。なお、これに対して、倒幕の側がかかげたのが錦旗(天皇の象徴である菊紋)であった。

その後、明治になって、明治政府の方針として、菊の紋章は皇室のものと定められ、一般の使用が禁止される。そして、日の丸が、郵船・商船・軍艦における御国旗として定められることになった。

そして、日の丸については、このように結論づける。

「「日の丸」は、文化的にも法的にも、日本という国家の対外的な存在証明でありつづけてきたのである。」(p.85)

たぶん、このような日の丸の歴史に、そのものについては異論はないであろうと思う。ただ、問題があるとすれば、日の丸が、どのような場面で、どのような意味があるのか、という議論になっている、それが現在の問題であると思う。

オリンピックで、日本選手の応援に日の丸を掲げるのは、これは特に批判されるべきではないと思う。日本という国家として、オリンピックに参加しており、他の選手も、それぞれの国家を代表して参加しているのであるから、ここでは、国旗(それから国歌)は、等しく平等にあつかわれ、それぞれに敬意をもって、とりあつかわれるべきものになる。


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