半藤一利『日露戦争史 1』
2016-08-21


2016-08-21 當山日出夫

半藤一利.『日露戦争史 1』(平凡社ライブラリー).平凡社.2016 (原著.平凡社.2012)
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この本、全部で三巻になる。本当は、全部読んでから感想など書くべきかと思うが、とりあえず、第一冊目を読み終わったので、その時点で思ったことなどまとめておきたい。単行本で出たとき、いずれ平凡社ライブラリーになるだろうから、そのときになってからまとめて買って読もうと思っていた本である。

日露戦争とくれば、私などは、ともかく『坂の上の雲』(司馬遼太郎)を思い出してしまう。これは、二回読んでいる。新・旧の文春文庫版で読んだ。最初に読んだのは、かなり若いときだったと覚えている。電車のなかで読む本として読んだ。司馬遼太郎の小説は新聞連載なので、短く切って読んでもわかりやすく書いてある。この意味では、外出先で電車の中で読む本ときめて読むには、ちょうどよかった。

それから、もちろん、NHKのドラマ『坂の上の雲』。これの放送は、2009年から2011年までだったか。これも録画して、何度か繰り返し見たものである。それから、再編集の再放送も、ほとんど見た。

このようなことを、とりあえず書いておかないと、この本『日露戦争史』(半藤一利)の位置づけがはっきりしない。著者は、(第一巻までは)はっきり書いてはいないのだが、当然ながら、司馬遼太郎『坂の上の雲』やNHKドラマのことは、かなり意識して書いているように、私などには思える。むろん、まだ、『坂の上の雲』を読んでいない人にも、わかるようには書いてあると思うのだが、その叙述のあり方を見ると、かなり意識しているという感じがしてならない。

その理由を二つほど考えてみる。

第一に、これは、「歴史小説」でも「歴史書」でもないと、自ら述べていること。「歴史探偵」と言っている。これは、半藤一利の他の著作でも同じであるが、「歴史探偵」ということばを、ここまで自覚的につかっているのは、半藤一利ぐらいなものかもしれない。

では、「歴史小説」ではないのはなぜか。これは、〈歴史とは何か〉という疑問について考えることにもなる。基本的には、史料にもとづいて書く、フィクションを交えることはない(原則)、ということになるのだろう。また、異論・異説があれば、それに言及することも忘れてはいない。

次に、それならば「歴史書」「歴史研究」ではないのは、どういう点においてか。強いて忖度すれば、研究者として、史料に基づいてそれまで知られていない史実をあきらかにしよう、という姿勢で臨んでいるのではない、ということになろうか。基本は、あくまでも、すでに知られている、公刊されているような史書にしたがいながら、歴史がこのようなものであったことを叙述していく。

この本のなかには、詳しいことは既刊の歴史書にゆずる旨の記載が、いくつか見られる。細かな歴史的経緯、事実関係については、専門書や論文、さらには史料を読んでほしいということになっている。

第二には、その歴史を見る視点のおきかたである。著者は、「民草」と書いている。「国民」とも「市民」とも書いていない。「民草」……しいて言い換えるならば、一般庶民とでもなるだろうか。それをあえて「民草」と称しているのは、かなり、その立場からの視点というのを意識してのことだろうと思う。


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