谷崎潤一郎『文章読本』
2016-08-23


2016-08-23 當山日出夫

谷崎潤一郎.『陰影礼賛・文章読本』(新潮文庫).新潮社.2016
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新潮文庫で新しい本がでたので、買って再読してみた、というところである。

谷崎潤一郎は、昭和40年(1965)になくなっている。つまり、もう、著作権の保護期間が終わっているということになる。そのせいか……『谷崎潤一郎全集』が刊行になるし、また、この新潮文庫の『陰影礼賛・文章読本』が出ている。他には、気づいたところでは、『細雪』が、角川文庫で出ている。ちなみに、この新潮文庫版の帯には、「没後五〇年」と記してある。

角川文庫版『細雪』
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ところで、この『文章読本』、いまどきどんな人間が買って読むのだろう……たぶん、私のような人間か、昔、谷崎の作品のいくつかを読んだり、また、『文章読本』をどこかで読んだ経験があって、今、新しいのが出たので買って読んでみよう……というような人間なんだろう、と思ったりしている。

というのも、読んでみて(再読になるか)、なるほどと思わせるところもある一方で、こんなにも陳腐な文章論、日本語論であったのか、と今更ながらある意味で感心したりする。

たとえば次のような箇所。

「語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。」(p.178)

現在の言語研究の観点からすれば、日本語は、特に、語彙・文法の面において、特殊な言語ということはない、というのが常識的なところだろうと思っている。日本語があいまいな言語だとかというのは、単なる思い込み、迷信のようなものにすぎない。

にもかかわらず、やはり『文章読本』というと谷崎のこの本をあげることになってしまう。これは、日本語における文章教育、国語教育の宿痾のようなものかと思っている。よくいわれることであるが、言語コミュニケーション技能と、文学的情操教育の関係の問題である。本来、これらは、別の観点から教えられるべきものであるはずである。しかし、それが、未分化なまま混在しているのが、日本の国語教育(特に、初等中等教育)の問題なのであろうと思う。いまだに、読書感想文などというものが横行していることを見ても、そのことは言えると思うのである。

私は、学生には、「文章読本」の類は、すすめることはない。教えているのは、大学(高等教育)における、文章コミュニケーション技能のトレーニング、つまり、論文やレポートの書き方である。論文やレポートを書くのに、「文章読本」の類は、役にたつことはないと言っておく。それよりも、紹介するのは木下是雄の本『理科系の作文技術』『レポートの組み立て方』などである。

とはいえ、文学とか、言語文化というような領域について勉強しようという学生にとっては、「文章読本」の類は、読んでおくべき一群の書物ということになるだろう。谷崎潤一郎のほかにも、今、名前がうかぶだけでも、三島由紀夫、川端康成、などが書いている。ほかにも、井上ひさし、丸谷才一などにも、著作があある。文学部で、文学研究などに興味関心のある学生にとっては、むしろ、逆に必読書といえるかもしれない。

いうまでもないが、これは、谷崎潤一郎の文章論、日本語論に賛成してのことではない。このような文章論、日本語論が、一般に受け入れられている日本の現状を認識しておかなければならない、という意味においてである。特に、日本語学などを専攻する学生にとっては、この谷崎潤一郎『文章読本』は、批判的に読まれるべき性質のものと考える。

ところで、今回、『文章読本』を読み直してみて、一つだけ面白い箇所があった。変体仮名についてである。これについては、また、別に書いてみることにする。


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