『最後の読書』津野海太郎
2018-12-28


2018-12-28 當山日出夫(とうやまひでお)

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津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
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ドストエフスキーを読み返している間に、気楽に読める本と思って手にしたものである。

著者(津野海太郎)は、八〇歳をむかえるという。その老年の境遇にあっての読書をめぐる、様々な思いが綴られている。

人はいずれ年をとる。老年になって、どのような読書が可能だろうか。

私ももう老眼である。本を読むときには、眼鏡(近眼用)をはずさないと読めない。字の小さい本が、読むのがつらくなってきている。文庫本など、昔の岩波文庫とか新潮文庫、まだ持っているものもたくさんあるのだが、とても字が小さすぎて読む気になれない。

まあ、新潮文庫の場合、本によっては、同一内容で改版して字を大きくして出しているのがある。それがある場合には、新しく買って読むことにしている。

ドストエフスキーを読んでいる。新しい亀山郁夫訳である。光文社古典新訳文庫のシリーズである。ドストエフスキーは、私は、古い池田健太郎の訳が好みではあるのだが、古い文庫本は、もう字が小さくてつらいと感じる。新しい亀谷郁夫訳の本は、字がひとまわり大きい。また、訳文も悪いとは感じない。いや、現代的な文学的感性を感じる訳文である。

年をとって「硬い本」は読めなくなるという。私にとって、ドストエフスキーの作品、それから、この秋に読んだ『失われた時を求めて』(プルースト)などは、そう「硬い本」とは感じないでいる。小説である。気楽に楽しめばよいと思って読んでいる。そして、この年になって、これらの作品を読んで、あるいは、再読してみて、その文学的感銘を感じている。

この本、読みながら興味深く感じたところがいくつかある。ドストエフスキーの作品を読む合間に、そのことについて書いておきたいと思っている。
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