『源氏物語』(一)新潮日本古典集成
2019-02-18


2019-02-18 當山日出夫(とうやまひでお)

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石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(一)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
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『源氏物語』を読んでいる。ふと思い立って読むことにした。本居宣長の『紫文要領』を読んだのだが、『源氏物語』を「桐壺」の巻から順番にページを繰ってみたくなった。

やまもも書斎記 2019年2月9日
『紫文要領』本居宣長
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『源氏物語』をはじめて読んだのは、いつのころだったろうか。高校の古典の教科書に出てきたのは憶えている。「若紫」の巻だったろうか。

それから、特別に補習授業のようなかたちで、「夕顔」の巻を読んだのを憶えている。これは、テキスト版として刊行されている本で、これだけで一冊になっていた。「夕顔」の巻のほとんどを読んだだろうか。

大学(慶應義塾大学文学部)の国文科で学ぶことになった。国文科の学生として、『源氏物語』ぐらいは、一通り読んでおくべきものという意識は持っていた。古い岩波の古典文学大系で読んだかと思う。

その当時、国文科には、池田彌三郎先生がいた。その講義にはでたものである。その講義の中での話しだったか、あるいは、その著書であったか……『源氏物語』は「若菜」(上・下)の巻をきちんと読んでおけば理解できる、という趣旨のことを教わった。

「若菜」(上・下)を読んだのを憶えている。

また、私の学生の時の勉強として、「源氏物語三段階成立説」があった。『源氏物語の研究』(武田宗俊)を読んだ。また、そのころ、大野晋説としても、源氏物語の成立論が出されたころだったろうか。

そのようなことをふまえて、「紫上」の巻を読み、「玉鬘」の巻を読み、さらに、「宇治十帖」を読み、というふうに読んだものである。

ともあれ、「桐壺」の巻は読んでいたものの、「桐壺」から順番に読むということはしていない。

もう国語学という勉強からも遠ざかろうと思っている今になって、『源氏物語』を「桐壺」から順番に読んでおきたいという気になった。文学作品として読んでおきたくなったのである。

どのテキストで読むかであるが……古い岩波の日本古典文学大系は、今では古めかしいかと感じる。新しい岩波の新日本古典文学大系もいいのだが、この本は、底本である大島本に忠実に本文がつくってある。ちょっとなじみにくい。仮名遣い、表記など。今、刊行中の岩波文庫本ぐらいがちょうどいい……仮名遣いが歴史的仮名遣いに改めてある、注もついている……しかし、まだ、このシリーズは、全巻揃っていない。小学館の新編日本古典文学全集もいいのだが、これは、私にとっては、どうも現代語訳がわずらわしい。原文のままで理解できるところを、わざわざ現代語訳をたどらないと校注の意図とれないのは、ちょっと読むのに不都合を感じる。

新潮社が、日本古典集成を「新装版」という形で再刊している。これで読むことにした。本文は、一般の源氏物語と同様、青表紙本系統をつかってある。表記についても、歴史的仮名遣いになっているし、適当に注もついている。

これまでの勉強として日本語の表記の研究というようなことを考えてきたのではあるが……ここは、割り切って『源氏物語』を、一つの文学作品としてただひたすら順番にページを繰っていきたいと思うので、この本で読むことにした。

で、ようや第一巻である。「桐壺」から「末摘花」までをおさめる。読むのに二日ほどかかったろうか。ほぼ一気に読んでしまった。


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