『やがて哀しき外国語』村上春樹
2019-09-05


2019-09-05 當山日出夫(とうやまひでお)

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村上春樹.『やがて哀しき外国語』.講談社.1994
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続きである。
やまもも書斎記 2019年9月4日
『使いみちのない風景』村上春樹
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1990年代の初期、著者(村上春樹)がプリンストンに居住していたときの文章をまとめたもの。その滞在記、エッセイといえばいいだろうか。時期としては、冷戦終結(ベルリンの壁の崩壊)の後、湾岸戦争のころ、ということになる。

読みながらいろいろ付箋をつけたが、以下の箇所を引用しておきたい。あとがきからである。

「でもただひとつ真剣に真面目に言えることは、僕はアメリカに来てから日本という国ついて、あるいは日本語という言葉についてずいぶん真剣に、正面から向かい合って考えるようになったということである。」(p.278)

「あらゆる言語は基本的に等価であるというのは僕の終始変わらない信念である。そしてあらゆる言語は基本的に等価であるという認識がなければ、文化の正当な交換もまた不可能である。」(p.279)

「これもまた経験的にわかる。それはたぶん〈自明性というものは永劫不変のものではない〉という事実の記憶だ。たとえどこにいたところで、僕らはみんなどこかの部分でストレンジャーであり、僕らはその薄明のエリアでいつか無言の自明性に裏切られ、切り捨てられていくのではないかといううっすらと肌寒い懐疑の感覚だ。」(p.282) 〈 〉内傍点

もし村上春樹の作品に、世界的に不偏ななにか、世界性とでもいうべきものがあるとするならば、それは、上述のような文化、言語についての感覚に根ざしたものであると理解されるだろうか。

このようなことを思って読んではみるのだが、日本の小説家の海外(アメリカのプリンストン)の滞在記として読んで、十分に面白い。理髪店のこと、ジャズのこと、いろいろ興味深い。

「結局のところ、残念ながらジャズというのはだんだん、今という時代を生きるコンテンポラリーな音楽ではなくなってきたのだろうと思う。」(p.107)

その後、今日に村上春樹の書く小説のなかに登場するジャズは、もはや失われたものとしての何か、ということになるのかもしれない。村上春樹の文学の世界性を考えるとき、貴重なてがかりを提供してくれる作品であると思う。

次は、『村上春樹雑文集』である。

追記 2019-09-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月9日
『村上春樹雑文集』村上春樹
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[文学]

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