『輝ける碧き空の下で』北杜夫
2019-09-06


2019-09-06 當山日出夫(とうやまひでお)

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北杜夫.『輝ける碧き空の下で』.新潮社.1982

続きである。
やまもも書斎記 2019年9月2日
『夜と霧の隅で』北杜夫
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この作品、北杜夫の作品のなかでは未読のものであった。今では、紙の本としては刊行されていない。Kindle版があるようだが、古本で紙の本で買って読むことにした。文庫本(四冊)でも刊行されていたものであるが、手にすることなく、今にいたってしまっていた。

北杜夫の主な作品は、高校生のころまでに読んでいる。『楡家の人びと』も高校生のときに読んだとか記憶している。この『輝ける碧き空の下で』は、1982年の刊行である。もう私は、大学生を終わっている。大学生になってから、北杜夫からは、とおざかってしまって今にいたっている。

第二部まであるうちの、第一冊目である。著者(北杜夫)の目論みとしては、第三部まで書くつもりだったらしいが、第二部までで終わっている。そのことの事情は、第二部のあとがきに記してある。

この小説について思うことを記すならば、次の二点になる。

第一に、小説として読んで、他の北杜夫の作品と比べてであるが……面白くない。これは、おそらく、著者自身も認めていることであろう。ブラジル移民がテーマであるのだが、その視点が、あまりに錯綜している。登場人物も多い。小説における登場人物として造形的に魅力のある人物にとぼしい。

これは、『楡家の人びと』のような作品を念頭において読むと、非常に強く感じる。『楡家の人びと』においては、なにより「楡家」という一族があり、「楡基一郎」をはじめとして、ユニークな登場人物にあふれている。

それにくらべて読んでみると、ただ、移民にまつわる様々なできごとが、歴史叙述風に淡々と記されるという印象を持つ。このあたりの記述のあり方については、参照した文献に依拠しているむね、著者自身が書いているところである。

これは、ブラジル移民という歴史的なできごとが、小説という虚構の世界で描くには、あまりにも壮大で、また多岐ににわたる視点を必要とすると言っていいのだろう。この意味において、東京の「楡家」という設定で描くことのできた『楡家の人びと』とは、スケールの桁がちがうのである。

第二に、ブラジル移民を描いた小説の、その後……現代の姿である。

かつて日本は、ブラジルに「移民」という形で、人びとを送り出していた。その日本が、二一世紀の今日になって、「外国人労働者」という形で、逆に、外国の人びとを日本に迎えいれようとしている。

著者は、第三部までを構想していたとある。第二次世界大戦後の「勝組」「負組」の対立までえがこうとして、そこまで描くことは無理であると、断念したとある。その著者(北杜夫)が亡くなってからの日本は、日系ブラジル人を多く労働者として受け入れることになっている。もし、著者(北杜夫)が、長生きしていて、そのような日本とブラジルの姿を見たならば、また、どのような感想をいだいただろうか、この作品を読んで想像してしまう。さらに、第四部、第五部……になるような、膨大な小説になるにちがいない。いや、そもそも、今の日本とブラジルの関係を、そのような、「小説」というような文学的な枠組みで描くことは、ほとんど不可能といえるかもしれない。

以上の二点が、『輝ける碧き空の下で』を読んで感じるところである。


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