『麒麟がくる』あれこれ「義輝、夏の終わりに」
2020-09-15


2020-09-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第二十三回「義輝、夏の終わりに」
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前回は、
やまもも書斎記 2020年9月1日
『麒麟がくる』あれこれ「京よりの使者」
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本当は、先週の放送の予定だったのだが、台風の影響で一週間のびてしまった。どうせ、COVID-19のため、中断している。今更、一回、放送を延期しても大勢に影響はない、ということなのだろう。

この回は、いろんな話しが錯綜していた。が、このあたりにきて、ようやく光秀が歴史の表舞台に登場してくるというはこびにはなっていた。

印象に残るシーンがいくつかある。光秀と信長。光秀と藤吉郎(豊臣秀吉)。将軍義輝のこと。松永久秀のこと。覚慶(足利義昭)と駒。伊呂波太夫のこと。など、など。

が、これらの印象に残るシーンの中で、特に印象的であったのは、将軍義輝かと感じる。もはや義輝は無力である。幕府の権威は地におちてしまっているとしかいいようがない。戦乱の世をどうすることもできない。どころか、その義輝自身が、命を狙われることになっている。

そして、やはり「麒麟」だろう。覚慶(足利義昭)も「麒麟」といっていた。「麒麟」のくる世の中にならなければならない、と。それは、戦乱のない、太平の世ということなのかもしれない。歴史の結果としては、いずれ、戦国時代は終わりをつげることになる。信長、秀吉、家康の手によって、天下は統一される。

だが、それが、はたして、「麒麟」のくる世の中であるのか、どうか……これは、また別の問題なのかもしれない。(先走って想像してみるならば、「麒麟」のくる世を、信長はつくることができないと見限って、本能寺の変ということになるのだろうか。)

この『麒麟がくる』では、たぶん意図的に「天下」ということばをつかっていない。「天下布武」というこばが、これから出てくることになるのだろうか。ひたすら、理想としての、太平の世の中を象徴するものとしての「麒麟」を追い求める、光秀の理想を追求する生き方が、どらまの主軸という印象をうける。

本当に「麒麟」のくる世の中になるのか、次週以降、足利将軍をめぐってドラマは大きく動くようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年9月14日記

追記 2020-09-22
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月22日
『麒麟がくる』あれこれ「将軍の器」
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[テレビ]

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