2020-09-22 當山日出夫(とうやまひでお)
『麒麟がくる』第二十四回「将軍の器」
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前回は、
やまもも書斎記 2020年9月15日
『麒麟がくる』あれこれ「義輝、夏の終わりに」
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これまでこのドラマは全部見てきているのだが、たぶん、「天下」ということばが、この回ではじめて出てきたように思う。これまでは、戦乱の無い太平の世、大きな国、ということはあったが、あきらかに「天下」ということばは使ってこなかった。ここで、はじめて「天下」ということばを出してきたのは、いよいよこれから、「天下」をめぐって、戦国最後の時代を迎えるということなのであろうか。
この回で描いていたのは、相反する次の二点だろうか。
第一には、武士とは何かということ。
光秀は武士である。武士としてしか生きることをしらない。これまで武士として生きてきたし、これからも武士として生きていくことになる。その武士の棟梁というべき立場が、将軍である。しかし、その将軍は無力である。いや、無力どころか、謀殺されてしまう結果となる。
次の将軍は、覚慶(後の義昭)ということになるが、この人物、人はいいのだが、将軍になる覚悟は決まっていないようだ。
また、時代の流れの中にいる、松永久秀も、まさに戦国の武士として生きているといっていいのだろう。
第二は、武士ではない人びとの生き方。
戦国時代であるからといって、武士だけがいたわけではない。それを代表するのが、駒だろう。あるいは、伊呂波太夫もそうかもしれない。だれが、次の将軍になろうと、武士ではないこれらの人びとにとって、さしたる問題ではない。
そして、公家、さらには、朝廷にとっても、武士ではない生き方がある。近衛関白にとって、武士とは、何であったのか。帝の権威のもとに、利用するだけのものかもしれない。
これら、武士ではない人びとの生き方も、また、ある意味で戦国時代ならではのものというべきであろうか。
以上の二点、武士をめぐる二つの人間の生き方が交錯しているのが、戦国末期の、ドラマの時代設定ということになるかと思う。ただ、歴史の結果としては、続く近世になって、また、新たな武士の時代がつづくことにはなる。
次回、信長も出てくる。また、正親町天皇をこれからどのように描くことになるのか、次回以降の展開を楽しみに見ることにしよう。
2020年9月21日記
追記 2020-09-29
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月29日
『麒麟がくる』あれこれ「羽運ぶ蟻」
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