2024年12月1日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』「1939-1941」
この週で一番印象に残るのは、なんといっても、大坂を訪れた安子が稔と逢って岡山に帰るときのこと。特に、その最後の汽車の中の場面が、このドラマ全体のなかでも最も印象に残る名場面である。それが、たくみに演出されたものであることを、再放送で確認したことになる。
この回では、オープニングが最後の方に持っていってあった。岡山に帰る汽車のなかの安子のシーンで終わり、そこで「アルデバラン」の曲が流れてオープニングになり、それが終わって汽車の中の安子が気がつくと目の前に稔が立っている。実にたくみである。
他にも、この回では、大阪の稔の部屋で、稔の本棚が映っていた。経済学の本などと並んで倫理学の本もあった。きちんと整理されて並んでいる。この本棚のワンカットだけで、稔が大坂で真面目に勉強している学生であることが分かる。
その一方で、稔と安子が食事をする場面。学生向けの食堂なのだろうが、ここでは稔の質実な生活ぶりが感じられる。
それから映画。モモケンの映画だった。これは、このドラマにとって後々までの重要な伏線になるものである。その映画の殺陣のシーンが、実によかった。手を抜かずに本格的に作ってある。こういうシーンがあってこそ、後のるい、ひなたの時代になって、京都の映画村でのストーリーにつながることになる。
岡山に一緒に帰った二人は、たちばなの家に行く。そこで安子の家族と稔が話しをするのだが、その間、安子は一言もしゃべらずに話しを聴いているだけだった。しかし、その表情で、稔の話、父親の気持ちを、理解している様子が分かる。科白ではなく表情だけで、その気持ちの変化が伝わってくる。
ここで流れていたのが渡辺貞夫だった。私の世代だと、渡辺貞夫や北村英治の名前を見るだけで、懐かしい思いこみあげてくる。
この週の終わりで、一九四一年(昭和一六)の太平洋戦争の始まりということになる。これまで多くの朝ドラなどドラマでは、太平洋戦争のはじまりを、日本の人びとはラジオの臨時ニュースで知った、というふうに描かれてきた。今、再放送中の『カーネーション』も同様である。
この時代のラジオの普及率はどれぐらいだったのだろうか。全国津々浦々まで普及していたのだろうか。日本の人びとは、どうやって太平洋戦争の始まりを知ったのだろうか。このあたりのことは、ドラマとは別にメディア史として興味深いことになる。
また、吉兵衛がラジオ体操のときに、ラジオに合わせて全国民が統一して運動をすることの意味を語っていた。このような言説が生まれることは理解できるし、まさに、ラジオの登場が、人びとの間にその放送を聴くものという共同体意識を生み出していったのだろうと思う。ラジオによる共同体意識の成立ということも、考えて見なければならないことである。
このドラマでは、たちばなの家の家族や従業員が、茶の間でラジオの放送を一緒になって聴いている。漫才や娯楽番組などを、一緒になってきいている。これが、その後、テレビの時代になって、家庭のお茶の間のテレビを家族みんなで見るということにつながる。
現代では、それがネットにとってかわり、家族から個のものになってきている。
このようなメディアと国民や家族という観点から考えてみても、このドラマからはいろんなことを考えることができる。
2024年11月30日記
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