「巻頭言2025 新・トランプ時代 混迷の世界はどこへ」
2025-01-05


2025年1月5日 當山日出夫

NHKスペシャル 巻頭言2025 新・トランプ時代 混迷の世界はどこへ

録画してあったのを翌日の朝にゆっくりと見た。特に目新しい論点とかがあったわけではない。私にとっての新知識としては、日本からブリがたくさんアメリカに輸出されていて、アメリカの人が好んでいる、ということぐらいだった。

関税がどうなるか。日本にとってだけの問題ではなく、これは世界経済全体の問題にちがいないが、最終的には、関税をかけたところでアメリカ国内の産業の構造が根本的に変わるわけではないので、どこかで着地点を見出すことしかないだろうと思う。私には、ちょっと騒ぎすぎのように思えてならない。(まあ、ブリの養殖、輸出の業者にとっては、大問題であるかとも思うけれど。)

テクノ・リバタリアンということばは、昨年ぐらいから目にするようになった。そのような価値観で生きたい人間はそのように生きればいいというのが、私の立場である。問題は、そのような生き方の人間の考えることによって、政治や経済の全体がどうなるか、不平等やゆがみが生じることになるかどうか、ということである。このことについては、民主的な政治のシステムを守るという他はないだろう。

民主主義とは何であるか、トランプ支持者と、そうでない人との間で、同じ民主主義ということについて、まったく異なる見方をしていること、このこと自体が大きな問題かもしれない。

だが、少なくとも、民主主義が、その社会の構成員のなかに異なる意見があることを前提として、全体としてどのように意志決定をしていくのか、ということの原点にたちかえって考えることはできるだろう。自分とは異なる価値観を持っている人に対して、なぜ自分とは違うのかを想像してみるちからが必要ということになる。そして、自分自身についても、なぜ自分はそのような価値観をいだいているのか、自ら省みることがもとめられる。これは、何度も書いていることである。歴史や文化から、そしてDNAから、まったくの自由な個人の意志というものは存在しない。そのことをふまえて、自分はなぜそのような意見をもつのか、よく考えて、そしてそのことに責任を持つことである。ここからしか、民主的な対話は生まれないだろう。

今の日本のように、自分と異なる意見に対しては、SNSでバカになっている、とさげすむのは、意味がないことになる。あるべき公共の言論の場を模索するべきだとは思うが、難しいことかもしれないとは思う。

2025年1月3日
[テレビ]

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