2025年9月23日 當山日出夫
憶えのない殺人「前編「容疑者」」
番組表を見ていて、ちょっと気になったので録画しておいた。
たまたまだろうが、世を騒がせた事件と重なる部分がある。また、認知症ということは、今の時代にあっては、他人事ではない。自分自身のこともあるし、また、周囲の誰かが、ということもある。
前編を見た範囲で気になったことは、もし、佐治(小林薫)が犯人だったとして、刑事責任能力を問えるのだろうか。ここのところは、ドラマを作るにあたって、もっとも考えて作った部分にちがいない。
現在の刑法の基本にあるのは、人間は個人として自由意志があり、その自由意志の結果の行為については、責任を負うべきである……という、啓蒙主義の人間観である。殺意のある殺人と、過失致死の違いということになる。どのような結果が起こったにせよ、その責任能力が問えない……例えば、心神耗弱であったとするならば……罪にとえない、少なくとも、十分に考慮すべき事情ということになる。こういうことの範囲に、認知症の症状をふくめることは、はたして妥当なことなのだろうか。
これは、自分自身が、加害者になりうる可能性もあり、被害者にもなりうる可能性もある、そういうこととして、社会的な課題として、これからの大きな問題であるにはちがいない。
このようなことを思って見ることではあったのだが、ミステリとしては、非常によくできている。
ただ、軽度の認知症ならば、周囲の人間が気づくこともあるだろうと思うし、また、その本人にとっては、感じ方、自覚のあり方は、さまざまだろうと思う。このあたりが、ややステレオタイプに描いているかな、という印象はある。
なお、人間の自由意志ということは、近代的な人権意識と深いかかわりがある。人間は、自分の意志で選んだことではないことで、不利益をこうむってはならない。たとえば、いわゆる人種として黒人であるとか白人であるとか、また、女性であるとか男性であるとか、その性的指向が少数の例外的なものであるとか(性的マイノリティ)、こういうことで、差別的なあつかいをうけることはない、これが現代の人権意識の基本にあることだと理解している。
この延長としては、自分の意志で認知症になったわけではない、と考えることにもなるだろう。
2025年9月22日記
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