『豊臣兄弟』「本圀寺の変」
2026-03-23


2026年3月23日 當山日出夫

『豊臣兄弟』「本圀寺の変」

戦国時代におこったいろんなできごとを、できるだけ登場させて、そのことに、実は、藤吉郎や小一郎がかかわっていた……まあ、ドラマはフィクションだから、これでいいようなものかもしれないが、なんだかなあ、という気になる。

ドラマなのだからこそ、この『豊臣兄弟』では、どんな「太閤記」にしたいのか、そのイメージ、制作の方向性があるべきはずだと思うのだが、残念ながら、私には、それが感じられない。ただ、これまでの戦国時代大河ドラマとは違うイメージで作りたいということは、分かるのだけれど。

このころ、藤吉郎は信長の侍大将になったばかりぐらいのはずであるが、その身分で、足利将軍に信長が拝謁している側にいるというのは、どうみても不自然かなと思う。信長のおつきのものというような立場ならこれでいいということになるのかとも思うが、これは、さすがにドラマとしても作為がすぎるように思える。

いや、もっと距離をおいて、歴史的な事件を目撃する第三者的な立場の登場人物をフィクションとして設定するということは、歴史ドラマとして有りうる設定ではある。たとえば、『平家物語』の人形劇に出てくる、赤鼻、がそうかもしれない。(もう、このことを覚えている人も少ないだろう。ただ、最近、再放送があったが。)

戦闘の場面を、映像としての見せ場として描くことになる。戦国時代ドラマだからこれはそうなる。本圀寺の戦いのシーンで、塀を乗り越えてくる敵を、鉄砲で撃つというのは、はたしてどうだっただろうかという気はする。この時代、鉄砲という武器は、こういう使われ方をしたのだろうか。火縄銃である。先込め式の単発であり、有効射的距離も短い。こういう武器が、この時代の戦いでどう使われたのかというのは、気になるところである。足軽が並んで鉄砲を構えて斉射ということは、あったとは思えないのだが。(これから出てくるはずの長篠の合戦で、信長が画期的な用法を生み出した、とされるのではある。)

脚本の都合でそうなっているということなのだろうが、とにかく、藤吉郎と小一郎と、二人で協力してことをなしとげたということに作ってあるのは、そういうものだと思って見ていれば、それまでのことである。しかし、ここは、逆に、藤吉郎を遠景において、小一郎を中心として、その成長の物語として描くこともできたのかとも思う。

足利義昭はいろんなタイプがあっていいと思う。だが、将軍の前で、藤吉郎を小一郎が言い争いをするのは、コントとしては面白いが、歴史ドラマとしては、このシーンが何をいいたいのか必然性を感じない

松永久秀が出てくるのは、戦国オールスタードラマとしてありだと思うが、どうせなら、大和の国を統治することの難しさ、その畿内における戦略的重要性ということを、もっと描いておくべきではなかったか。このドラマの終盤には、小一郎は、豊臣秀長として大和の国を治めることになるのは、分かっているのであるから。畿内の視点から見た京の室町将軍(この時代、将軍は京にいないことの方が普通だったはずだが)とはどんなものだったか、これは面白い視点かと思うのだが、描いていない。


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