2024年8月19日 當山日出夫
『光る君へ』「月の下で」
この回の放送で最も重要なところは、まひろが帝に献上した物語について、自分の手元でさらに推敲を加えているシーンである。
おそらくは、これが『源氏物語』ということになるにちがいないのだが、その「オリジナル」とはどんなテキストなのか、これを考えると非常に難しい問題がある。一般に古典籍の研究では、本文批判としてどのテキストが正しいかということを厳しく吟味する。その多くの場合、より古いテキストであり、「原本」に近いテキストを目指す。しかし、そもそも文学作品における「オリジナル」の「原本」とは何であるか、改めて考えてみると、なかなかの難問である。
ドラマの展開についていえば、『源氏物語』について、一条天皇や彰子が読んだテキストが「原本」ということになるのか、あるいは、その後、まひろが推敲を加えたテキストこそが、本当の作者の書きたかったものである、ということになるのか。
まあ、いずれにせよ、『源氏物語』の原本というべきものは残っていない。今、普通に使われているのは、藤原定家の手になる青表紙本系統のテキストである。『源氏物語』が成立してから、およそ二〇〇年後のことになる。それでも、このようなテキストが残っているのは、日本の古典籍研究において僥倖というべきである。
いろいろと言いたいことはある。『源氏物語』が「いずれの御時にか」で始まる「桐壺」から書き始められたものなのかどうか、これは、疑うことになる。そして、いわゆる「源氏物語三段階成立論」のような議論へと発展していく。
ともあれ、このドラマにおいて、何故まひろが『源氏物語』を書くことになったのか、その物語の構想はどうやって思いつくことになったのか、これについて、その生いたちから始まって、これまでの人生の経験として描いてきたことになる。これは成功していると言っていいだろう。(実際の紫式部がどのようにして『源氏物語』を書いたかということとは別にして。)
まひろと道長は月を見ていた。さて、日本文学のなかで、月を見るということはどのように描かれてきたのだろうか、と見ながら思ったことである。『竹取物語』では、月を見ることは必ずしもいいこととして描かれていない。しかし、王朝貴族の風雅において、月は必須のものでもあった。
現代のような太陽暦が広く普及する以前、前近代の人びとにとっては、月の満ち欠けは生活の一部であったにちがいない。
気になることとしては、このドラマでもう猫は登場しないのだろうか。
2024年8月19日記
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