『光る君へ』「中宮の涙」
2024-09-16


2024年9月16日 當山日出夫

『光る君へ』「中宮の涙」

『源氏物語』では、「夕顔」から「若紫」の巻あたりのことになる。まだ、ドラマのなかでは『源氏物語』という名称はついていない。しかし、宮中の人びとの間では話題になってきている。

夕顔を取り殺したのは、生き霊であった、ということらしい。通説にしたがうならば、「夕顔」の巻の冒頭の「六条わたりの御しのびあるきのころ」とあるのをふまえて、六条の御息所の仕業と理解するのが普通かと思っている。むか〜し、高校生のころ『源氏物語』の「夕顔」を読んだときには、そのように習ったのを憶えている。しかし、『源氏物語』を現在の順序で読んでいくと、まだこの段階では、六条の御息所は登場していないので、なにがしの院にあらわれた怪異のしたこと、ということになる。

「若紫」の巻は、『源氏物語』の中核をなす部分の一つである。女房たちが言っていたように、藤壷と密通しながら、同時に、おさない紫上(まだ少女である)を自分のところに連れ去ってしまうのは、現代の価値観では、れっきとした犯罪である。ドラマでは出てこなかったが、光源氏がまだ幼い少女の体にふれて、この少女が成長したらどんな美人になるだろうかと、想像をたくましゅうするあたり、まさに猟奇的な美しさを感じる部分でもある。

紫上は、彰子なのか……謎めいているが、そう思って読むこともできる。光源氏と藤壷との不義は、まひろ(藤式部)と道長のことが、なぞらえてあるのか……いろいろと、想像して見ることになる。そして、このドラマの画期的なところは、『源氏物語』について、自著解説というようなかたちで、まひろ(藤式部)が、折に触れて語るところである。こうなると、玉鬘がどんなふうに出てくるか、何よりも女三宮のことについては、一条帝や彰子はどう思って読むことになるのか、宇治十帖の浮舟についてはどうか……この先のことが楽しみになってくる。

自著解説といっても、ここの部分はこういう意図だからこう解釈しなければなりません、ということにはなっていない。読む人の解釈の自由になっている。(今の朝ドラとは、おおちがいである。無論、まひろが正しい。)

紫式部と和泉式部が語らっている場面は、まあ、そういうこともあったのかなあ、という気で見ていた。やはり、和泉式部は天性の歌人である。

なかで、女としての幸せ、ということを言っていたが、この時代に近代的なこのような概念があっただろうかとは思う。その一方で、親の気持ち、ということも出てきていた。家族のあり方とか、男女のあり方は、時代や階層によって異なるとは思うが、親としての気持ちは、かなり普遍的なものがあるだろうかと、思うところがある。『源氏物語』にも、親としての気持ち、を描いた部分はいくつかある。

まひろ(藤式部)は、物語を紙の裏表に書いていた。これはいいとしても、紙はバラバラのまま使っている。今でいう、ページ番号のようなものは付けていないようだ。これだと、風が吹いて紙が飛んでいったり、運ぶ途中でころんで落っことしたりして、散らばってしまっても、順番通りにもどすのが大変である。さて、実際はどうしていただろうか。といって、最初から、長い巻子本に書いたともおもえない。

宿世ということばが出てきた。記憶する限り、このドラマで宿世と言ったのは初めてかもしれない。『源氏物語』は「宿世」の文学であるともいえる。ドラマの登場人物たちも、宿世を感じながら生きていたということでいいだろうか。

彰子は、物語を周囲の女房たちが声に出して読んでいるのを聴いていた。『源氏物語』については、「源氏物語音読論」というのがあったのだが、これはともかく、その当時の人びとにとって、物語を読むということは、音読であったと考えるべきだろうか。


続きを読む

[テレビ]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット