『べらぼう』「(1)「ありがた山の寒がらす」」
2025-01-06


2025年1月6日 當山日出夫

『べらぼう』 (1)「ありがた山の寒がらす」

いつものように、日曜日は見ている。第一回を見て思うことなど、思いつくままに書いておく。

主人公の蔦屋重三郎が半鐘を鳴らす場面からだった。火事で始まらなければならない必然性が、私は、あまり感じられなかったのだけれども、どうなのだろうか。まあ、語りのお稲荷さんの紹介、ということでは理解できることになるけれど。

始まって、まず、吉原がどんなところか説明することになるのは、今の時代のドラマとしては、どうしてもそうなるだろう。吉原といっても、時代によっていろいろと変遷があるはずなので、この時代……蔦屋重三郎の時代……どんなところだったか、概略を示すことになる。といって、売春はすべからく悪であり、性搾取以外のなにものでもないと、潔癖になりすぎることもできない。ある程度は、この時代の価値観として容認するという方向にはなる。

吉原の立地であるが、幕府としては、悪所として遠ざけたかったのかとも思うが、歩いて一時間以上かかるとなると、さびれるのも当たり前かもしれない。冬場だったら、完全に興奮も冷めてしまうだろう。近場の岡場所が繁盛するのは、消費者の心理としては、当然である。交通と遊廓というのは、たぶん研究のある分野だろう。

吉原で遊ぶと大金がかかる。そうだったのだろうが、では、そのお金はどこにどう流れて循環することになるのだろうか。吉原の経済学というのは、どうだったのだろうか。

今のドラマとして、吉原にスマホがあっても、おかしくはない。NHKが「吉原のスマホ」というような番組を作って、花魁の写真がSNSで拡散するようなことがあったとしても、これはお楽しみということになる。

蔦屋重三郎を「江戸のメディア王」とするのは、どうなのだろうかと思っている。たしかに、この時代にあって、戯作、浮世絵、という分野において大きな存在感があったことは確かである。歌麿や写楽の存在は、日本の美術史に大きい。

だが、すでに書いたことでもあるが、その時代の日本の出版文化や美術の全体像を考えてみることができるとしたら、蔦屋重三郎の仕事は、そのごく一部のことにすぎない。今の日本で、コンビニで売っているような本や、マンガやアイドル写真集……これは多くの部数が出ていることは確かだろうが……これだけで、日本全体の出版文化を考えることは出来ないのと、同じようなことである。

吉原が舞台のドラマである。吉原が江戸時代の文化……文化ということばの使い方としていろいろと思うことはあるが……の、どの部分をあらわしていることになるのか、逆に、吉原を描くだけでは見えてこないものがあるとしたら、それは何なのか、こういう視点を、ドラマのなかにふくんでいなければならないと思うのだが、これは、高望みというべきだろうか。あるいは、このドラマで描いた以外のことは、見るものの知識と想像力にまかせるということでいいのだろうか。(私は、いいドラマというのは、見るものの想像力を刺激するものだと思うのだが、吉原から見える江戸の世界の人間として、何を思うことになるかは、難しい問題があるかと思っている。)

江戸の吉原の女郎たちのことを考えるとき、特に蔦重の考え方は、現代の人権感覚にちかいとらえかたで見ていると感じるのだが、すこし無理かなと思うところと、現代で作るドラマとしては、こうなるだろうと思うところがある。

吉原は、世俗の論理の通じないところというのが、基本のイメージとしてある。ここでは、武士とか町人とかの身分を超えた価値が支配するところである。このような側面をこれからどう描いていくことになるだろうか。

女性の化粧が、現代的な感じが強いかなと思うけれども、これはしかたないだろう。『光る君へ』でも、そうだった。


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