『べらぼう』「(1)「ありがた山の寒がらす」」
2025-01-06


下級の女郎は風呂にも入れてもらっていない、ということであったが、そもそも江戸時代には、今のように毎日のように入浴する習慣ではなかったと思うが、花魁などの場合、毎日、風呂に入っていたのだろうか。ちょっと気になったところである。さて、吉原や岡場所などの風呂事情はどうだったのだろうか。(現代の性風俗は、風呂はつきものといっていいのだろうが。)

「忘八」は、蔑みのことばであり、同時に、自虐的にもつかえることばだとは思うが、あまり人前で使うことばではなかったろう。これを田沼意次が使ったのには、ちょっと違和感があった。

ことばの使い方で気になったのは、女郎言葉。いわゆる「ありんす」ことばになるのだが、これは、地方から身売りされてきた女性たちが、その出身地の方言を隠すために人工的に作られたことばということになる。日本語学としては、非常に特殊な役割語の一種としてとらえることになる。ドラマのなかで、女郎たちが使っているのだが、場面によっては、そうでないときがある。女郎として客に対している場面は、そういうことばなのだが、仲間内どうしでは、地のことば(といっていいだろうか)を使っている。

女郎のことばが出身地の方言を隠すためのものであるということは、私は、高校生のときに、国語の時間に習ったことだと記憶している。さて、今の学校で、こんなことを教えてくれる先生がいるだろうか。

吉原を描くといっても、女郎がいたのは吉原だけではなかった、ということを明確にしているのは、これは私は賛成である。岡場所とか宿場町の女性たちである。今では東京の市街になってしまっているが、品川や新宿などは、かつては売春の街であったことは、歴史の常識である。無論、売春といっても、女性が男性の相手をするばかりではなく、男性の相手をする男性もいた。こういう歴史もたしかにあったのだが、はたしてNHKは、このようなところまで描くことになるだろうか。一方的に女性を被害者とするだけでは、人間の性の歴史は描けない。

最初の回で、蔦屋重三郎と田沼意次が話をする場面が出てくるとは、ちょっと驚いた。このようなことがあったとしてもおかしくはないけれど、ちょっと無理があるような気がしてならない。別にまったく別世界の人間として登場してきていて、お互いの人生で交わるところがなかったとしても、ドラマとしてはなりたつと思うのだが。

山吹の実と言っていたが、「みのひとつだになきぞかなしき」とも歌に詠まれている。ここは、山吹の花とでも言った方がいい科白だった。田沼意次が、山吹色が大好きというのは、まあ、嫌いな人もいないと思うが。これからどのように、田沼意次、それから松平定信を描くことになるのかは、楽しみである。

田沼意次の邸が立派すぎると感じるのだが、史実としてはどうだったのだろうか。

鬼平も登場していたが、ここは「野暮」をどう描くかということになる。吉原の「通」「粋」を表現するためには、やはり「野暮」に登場してもらわないといけないと思ってみていたが、鬼平はちょっとかわいそうだった気もしないではない。

蕎麦が、二八そばで、値段が一六文ということは、『べらぼう』関係の番組のなかでよく出てきたことだが、はたして蕎麦の実際の価格はどうだったのだろうか。今でいえば、ファストフードで、まあ、ビッグマックの値段で世界の地域の物価をはかるようなものかもしれない。これも変動があったにちがいないが。

江戸っ子と言っていたが、吉原生まれ、育ち、という場合でも、江戸っ子と言っていいのだろうか。吉原は江戸のなかでも、市中とは違った特殊な場所であったはずである。

おちゃっぴきと出てきた。今では、もう、お茶をひく、という言い方もしない。これなど、注釈的なナレーションがあってもよかったかもしれない。


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