以前、姑と同居したいお嫁さんなんているはずがないと花江が言っていたのを、家族裁判で強引にねじ伏せたのは、寅子であった。では、寅子自身は、自分の航一との結婚(内縁の関係)については、どう思っていたのだろうか。また、姑と嫁の同居について、そうあるべきと思っていたなら、裁判所での秋山の言っていたこと(姑が大嫌い)を、どう思って聞いていたのだろうか。このあたり、寅子という人物が場当たり的にキャラクターを使い分けごまかしているようにしか思えない。これは、たまたま百合さんがいい人だったから、子供たちも理解してくれたから、ですむことではないと思う。花江の気持ちは理解する気がないが、秋山の気持ちは聞く、というのも、どこかおかしい。
このドラマは、裁判官、それも家庭裁判所にふかくかかわった裁判官が主人公である。無論、仕事としての家庭裁判所の仕事と、個人としての自分の家庭内のことは別であり、むしろ、そこのギャップを巧みに描いてこそのドラマだと思っている(いや、思っていた)のだけれど、星の一家のことを見ると、どうもそういうことを、このドラマは描くつもりはなさそうである。結局、寅子はみんなに愛される人物で、寅子を中心にして、どんなトラブルも円満におさまる、ということらしい。
娘ののどかが、この人たちは嫌い、ということを言っていたが、私の感覚としては、この台詞がもっともリアルで説得力があった。
のどかが補導されたときの反応が、いまひとつ腑に落ちない。寅子はただ、よかった、と言っていたのだが、これは、家庭裁判所の仕事をしたことのある裁判官の経験の裏打ちのある台詞として、重みに欠ける。あるいは、裁判官といえども、家庭では普通の親であるということかもしれないが、それならそれで、裁判官としての法律にもとづく思考と、家庭内での親としての感情との、時として矛盾し錯綜する気持ちを、これまでにも描いておくべきことだったと思える。
秋山の子どもについて、百合が、ベビーシッターをやってみたい、と言っていたのは、噴飯物である。百合は、子どもができなかったと言ったばかりである。つまり、赤ちゃんの育児の経験がないといっていいだろう。そんな女性が、ベビーシッターをやりたいと言い出すのは、どう考えても無理がある。ここは、せめて、百合に兄弟でもいて、その甥や姪の赤ちゃんのときに面倒を見た、ぐらいの台詞がないと無理である。しかし、その前に、最高裁判所長官の妻だった女性が、ベビーシッターのアルバイトという設定を思いつくこと自体が、信じがたい。このドラマは、あまりにも社会階層ということに無自覚すぎる。
優未がマージャンで勝負をいどんできたとき、のどかに、勝ったら自分の気持ちを話してほしい、という意味のことを言っていた。このあたりが、このドラマの脚本の無理を感じるところでもある。人間は、自分の思っていることを、そんなに簡単にことばにできるものではない。たやすく明瞭にことばにできないことを、あるいは、本来の気持ちとは違うことばを発してしまうこともある人間というものを、どう描くか、というのがドラマというもののはずである。はっきりいって人間観が軽薄なのである。
ドラマのなかではかなり以前のことになるが、民法改正のときのことである。そのとき、神保教授は、このようなことを言っていた。理想を追求することも重要だが、今目の前で苦しんでいる人を救うことも考えなければならない。しかし、このとき、寅子は、この発言を旧弊なものとして無視していた。その寅子が、別の場面になると、自分に困ったことがあれば、それを最優先にしなければならないと、怒り狂う人物になっている。これを自ら自覚しているのかどうか。あるいは、そんなことには無頓着である人物設定なのか。このあたりのことも、寅子というキャラクターに違和感を感じる一因である。
その他、いろいろと書きたいことはあるが、これぐらいにしておく。
2024年8月31日記
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