秋山は、姑と同居していたはずである。少なくとも日常的に顔を合わせる関係にはあった。でなければ、早く男の子の孫を産めという、姑の台詞には意味がない。常識的に考えれば、出産して仕事に復帰するとして、まず頼るのは姑ということになるはずである。大嫌いといっていた姑には、子どもの面倒を頼みたくないというのならば、それはそれで筋が通ったことかもしれない。だが、それよりも、働く女性としての自分の仕事のためには、大嫌いな姑に頼らざるをえないということの葛藤の方が、より現実的であったようにも思われる。だが、このあたりが曖昧なままであった。
仕事をしている女性が妊娠して、しばらく仕事を休んで、また仕事にもどる。育児の手助けをしてくれる人はいる。これは、別にかつての寅子の場合と、まったくかわらない。たしかに、仕事の上でのキャリア形成にはいくぶんの差が出ることにはなる。しかし、これも、寅子のときも同様であったはずである。
寅子のときと、秋山のときと、そんなに大きく状況が変わったということではないとしか思えない。ここで、寅子は、道をきりひらいたあとは舗装する、と言っていたが、はたして何をしたことになるのだろうか。それは何よりも裁判官としての優秀さであるべきだが、これまでのところその優秀な仕事ぶりは描かれてきていない。
秋山は、男性より三倍、五倍、頑張ったと言っていた。だが、それは科白で言われただけだった。ドラマとして描くべきはその頑張りの姿である。それが何もなかった。せめて、使い込まれボロボロになった「六法」でも小道具として映っていればよかったかもしれないのだが、そのような配慮のある演出はなかった。
寅子は、秋山のために何かするというのであれば、まず、それができる地位にいることが必要である。居場所を作る、と言っていたが、この時の寅子は東京地裁の判事である。なにか具体的なことができる権限があったのだろうか。それがないのにことばだけでそう言ったとするならば、無責任ということになる。
同期の法曹関係などの署名嘆願ということはあった。だが、それも、具体的に制度が変わってこそ意味がある。ここは、寅子がおこなった請願が、その後にどう活かされたかを、語っておくべきところだったと思うのだが、それはなかった。
ここで思い出すのが、以前、竹もとで後輩の司法修習生(だったと思うが)の女性たちと会ったときのことである。このとき、寅子は、後輩たちのために何ができるか、ということを考えていた形跡はなかった。むしろ、後輩の女性たちから、寅子みたいにはなりたくないと、嫌われる存在としての寅子を印象づけた場面だった。
この間に、寅子がどう成長したのか、女性の法曹への道の重要性を考えるようになったのは何故なのか、そのプロセスが、このドラマでは具体的にまったく見えていない。
星の家の様子は不可解である。その当時、戦争でつれあいを亡くした男女どうしの再婚ということは、あり得たことだろう。その家族の関係を、どう描くのかというところも、ドラマとしては見どころの一つになるはずだと思うのだが、はっきりいって、まったく感心しない。
前にも書いたことだが、この時代であれば、戦前までの家にかわって、夫婦と子どもを単位とした家庭が、社会の基本になるべきだという考え方が、ひろまりつつあったころである。家庭裁判所の裁判官だった寅子なら、このことは、より強く意識することだったと思っていいだろう。だが、この当時の家族観として、説得力あるものになっているとは言いがたい。そもそも、愛情で結ばれた夫婦ということを、寅子と航一は否定している。永遠の愛を誓わない。
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